日清戦争は、日本側の勝利のうちに終結した。アメリカの仲介で3月下旬から講和会議を下関で開いた。大国清に勝利した日本人は、提灯行列をなして大喜びをした。清の全権李鴻章を揶揄した、こんな川柳が残っている。
「海軍全滅、李爺の苦も水の泡」
「清敗(心配)がたえぬとこぼす李鴻章」
だが、喜びもつかの間、講和会議の直後に三国干渉があり、日本は遼東半島の支配権を放棄させられた。三国干渉に怒った日本は、臥薪嘗胆をスローガンに掲げて富国強兵へと邁進した。
第三師団は、明治28年(1895)6月25日にようやく帰郷した。それを名古屋中が出迎えた。
この戦争で、第三師団は、戦死者が700人以上になった。その霊を慰めるため、明治33年には日清戦役戦死者記念碑を建てた。場所は武平町と広小路の交差点(現・中区役所の東北)である。砲弾スタイルで、高さが23メートルもあった。通常のビルにたとえれば、6階か7階建てに匹敵する。この忠魂碑はその後、覚王山日泰寺に移された。
日清戦争の傷跡は大きかった。出征した兵士のうち、戦病死したのは、名古屋市域では80人だった。意外なのは、その死因だ。80人中64人が病死なのである。食糧や衣料品、医療品が不十分だったために、凍傷等で倒れる者が続出した。
留守居家族にとっても、一家の大黒柱を奪われることは打撃だった。仮に生きて帰ってきたとしても、その最中に農作業がおろそかになるので、農業生産が落ち込んだ。〔参考文献『名古屋市史』〕
日本の経済は、明治20年代に入ると、紡績・紡織工業が目覚ましく発達するようになった。そして日清戦争の勝利は、日本経済に明るい要素となり、経済が飛躍的に伸びることになった。
それは貿易のデータを見ると、よく分かる。これは日本の輸出入の金額である。5カ年平均で出してある。
これを見ると、明治26年(1893)以降に貿易が急伸している。日清戦争で、市場が大陸まで拡がったことがビジネスチャンスになった。
しかしながら輸入ばかりが増大して、貿易収支は赤字基調だった。その貿易赤字はなかなか解消できなかった。輸入超過に苦しむ日本が、外貨獲得の商品として力を入れたのは生糸だった。生糸は輸出の中で3分の1を占める比率があった。まさに日本は〝オカイコサマ〟のおかげで成り立つ国だった。当時の日本人は「細くとも生糸は国の命綱」と語っていた。〔参考文献『日本近代経済形成史』(高橋亀吉 東洋経済新報社)〕
「豊田代理店伊藤商店」は職人が増え、明治28年(1895)には寶町3‐66に移転した。その場所は名古屋テレビ塔のあるブロックの南側近辺だと推定される。だが、ここで挫折を経験することになった。伊藤久八が相場に失敗したのだ。伊藤久八は糸繰返機の販売が少しうまくいっただけで調子に乗ってしまい、相場に手を出して大失敗した。
佐吉が、それを知った時はもう手遅れだった。
伊藤久八は、1週間の期限で、店の整理案を佐吉に出すという約束をした。だが、首を長くして待っていても伊藤久八は来なかった。代わりに来たのは、執達吏の一群だった。店の財産を差し押さえるというのだ。
佐吉は驚いた。執達吏に対して「豊田代理店伊藤商店とはなっているが、この店は全部自分の所有である」と主張しても受け入れてもらえなかった。佐吉は困り果て、友人に頭を下げて無心し、ようやく伊藤久八の負債を返済して事なきを得た。伊藤久八が逃げてしまったので、屋号は「豊田商店」と改めた。
伊藤久八に裏切られて、残務整理に追われていた佐吉だが、嬉しいこともあった。かねてからの宿題だった木製動力織機の発明がほぼできあがっていたのだ。その木製動力織機は、前述したように糸繰返機の製造でお世話になった豊橋市下地の宅間喜右衛門に依頼した。
Copyright(c) 2013 (株)北見式賃金研究所/社会保険労務士法人北見事務所 All Rights Reserved
〒452-0805 愛知県名古屋市西区市場木町478番地
TEL 052-505-6237 FAX 052-505-6274