1月6日、ロシア側からの3回目の回答があった。それを受け取った外相の小村寿太郎は、内容を読んで、しばし沈黙し、椅子にへたり込むように座った。戦争回避に向けた交渉はうまくいかなかった。
1月12日、御前会議が開かれた。閣僚たちは、もはや戦争は不可避であるとの旨を奏上して、国交断絶案を明治天皇に提出した。だが、天皇は「しかし、なおいっぺん、外交交渉を続けてみよ」といい、同意しようとしなかった。
2月1日、参謀総長大山厳元帥も参内して、明治天皇に彼我の戦力を報告し、対露開戦を決意すべきだと迫った。
この頃、明治天皇は憔悴しきっていた。食欲もなく、ふだんの3分の1しか喉を通らなかった。
2月4日、明治天皇は早暁に伊藤博文を急に呼び付けた。博文が通された部屋は、なんと天皇の居間であった。「今日の会議の前に、もう一度、卿の率直な意見が欲しい」と尋ねたという。
この4日の午後2時25分に御前会議が開かれた。そこで対露開戦が決まった。だが、明治天皇は「今回の戦いは朕が志しにあらず」と涙を流したという。その頃天皇が詠んだ一首に偽らざる心境が込められている。「ゆくすえはいかなるかと暁の ねざめねざめにおもうかな」
2月5日、密封命令をもって、伝令役が佐世保の連合艦隊三笠に到着した。その日の夕刻5時に開け、という命令だった。
東郷平八郎は、開戦の命令書を受け取った。その内容は「連合艦隊司令長官ナラビニ第三艦隊司令長官ハ東洋ニ在ル露国艦隊ノ全滅ヲ図ルベシ」となっていた。東郷は、さっそく三笠に各隊の司令官と艦長を集合させた。シャンパンが配られ、東郷は「一同の勇戦奮闘を望み、前途の成功を期して、杯をあげる。いざ!」といい、干した。
連合艦隊は、佐世保から出撃した。〔参考文献『NHKスペシャル坂の上の雲』(NHK出版)、『日露戦争史1』(半藤一利 平凡社)〕
《1月》 日本陶器が設立。
《2月》 日本は2月4日、対露宣戦御前会議を開き、国交断絶の最終案を決定し、ロシア外相に通告した。連合艦隊は直ちに出撃命令を受け、佐世保の軍港を出動した。連合艦隊は、9日に第一次旅順攻撃を行った。9日には仁川沖海戦を行った。24日には第一次旅順口閉塞作戦を開始した。この戦費の確保のために、24日に日銀副総裁高橋是清がアメリカに向かった。名古屋では、軍資金の献納運動が始まった。
《3月》 3月6日に名古屋の陸軍第3師団に動員令。20日に名古屋商業会議所が「非常特別税ニ関スル建議」をまとめた。27日に、第二次旅順閉塞作戦が行われ、その時に広瀬武夫中佐が戦死した。
《4月》 4月1日に戦費調達のため、非常特別税法および煙草専売法が公布された(実施は7月)。4日に日本軍が奉天省の義州を占領した。
《5月》 5月1日に第一軍が鴨緑江を渡河し、九連城を占領した(鴨緑江の戦い)。12日に第1回ポンド公債(1000ポンド)を英米で募集開始した。26日に第二軍が金州城を占領した(南山の戦い)。30日に第二軍が大連を占領した。
《6月》 6月4日に乃木第三軍司令官が塩大墺に上陸した。17日に百三十銀行が臨時休業し、銀行界に混乱が起きた。
《7月》 7月6日に満州軍総司令官大山巌、同参謀長児玉源太郎の両名が東京を進発し征途に就いた。10日に愛知県下に暴風雨、被害甚大。
《8月》 8月9日に旅順市街を砲撃した。10日にロシア艦隊が旅順を出撃し黄海で連合艦隊と海戦し、ロシアの主力は旅順に敗走した(黄海海戦)。14日に第二艦隊が蔚山沖でウラジオストク艦隊と海戦して、1隻を撃沈、2隻を撃破した。19日に第三軍が第一回旅順総攻撃を行った。25日に遼陽の大攻撃開始(遼陽会戦)が行われた。
《9月》 9月4日に第一、二、四軍が遼陽を占領した(遼陽の会戦)。21日に日露両軍が二百三高地をめぐって激戦を繰り広げた。
《10月》 10月14日に沙河の激戦に勝利した。15日にバルチック艦隊がリバウ港を出港した。17日から名古屋で日露戦争活動写真の上映が始まる。26日に第三軍が第二回旅順総攻撃を開始した。
《11月》 11月14日に旅順攻撃に関し御前会議開かれた。25日に東京砲兵工廠熱田兵器製造所が事業開始。26日に第三軍が第三回旅順総攻撃を開始した。26日に旅順攻略が行われ、「白襷隊」による決死攻撃が行われた。28日にロシア軍捕虜が東本願寺別院収容所に入所。30日に二百三高地の一角を占領したが、すぐに奪還された。
《12月》 12月5日に二百三高地を占領し、そこから旅順港内のロシア艦隊にめがけた砲撃を開始した。ロシアの旅順艦隊全滅。6日に名古屋商業会議所が「織物消費税ニ関スル建議」をまとめた。
名古屋は、名古屋城を拠点とする陸軍第三師団があった。第三師団は、第二軍に所属していた。第三師団は明治37年(1904)3月、城北練兵場において観兵式を施行し、その後、鉄道で広島に集合した。37年5月には中国の遼東半島に上陸し、南山・大石橋などで死闘を繰り広げ、多大な犠牲を出した。〔参考文献『新修名古屋市史』〕
明治37年(1904)の帝国議会は、戦時財政計画に基づく非常特別税法、煙草専売法を可決し、戦費を捻出しようとした。ここに地租・営業税・所得税・酒税・砂糖消費税・醤油税・登録税・印紙税・関税などの増税に加え、毛織物消費税と石油消費税を新設した。この織物税は、名古屋の繊維商業に大きな打撃を与えた。こうして日露戦争は、国民の犠牲のうえで遂行された。
日露戦争の軍資を賄うために、献金が行われた。戦争が始まった明治37年2月から運動が行われ、愛知県全体でも、合計2万5千人が延べ7万円を献金した。多額献納者が多数いたので、金額を押し上げた。中には、お小遣いを献金した学童までいた。
名古屋の財界でも「お国のためならば」と、巨額の献金に応じる向きが少なくなかった。例えばタキヒヨーの四代目滝兵右衛門は5千円を献金したが、その賞として金杯1個を下賜された。
自主的な献金だけではない。馬は愛知県内だけで7千頭が強制的に徴発された。大麦も徴発された。馬が食べるマグサも徴発された。このように物資が軍部によって徴発される中で、物資の価格も高騰するようになった。〔参考文献『新修名古屋市史』〕
佐吉は良いアイデアが浮かぶと、もう夢中になってしまう。
明治37年(1904)、佐吉が名古屋から大阪に出掛けた時の話だ。汽車に乗ると、佐吉は自動織機の考案にふけった。名案がしきりに浮かんだので、例のいつも離さぬ鞄から紙と鉛筆を出して夢中に工夫を凝らしていた。
当時は日露戦争の最中で、バルチック艦隊の遠征が伝えられ、日本上下を挙げてこの一戦こそ勝たねばならぬと勢いこんでいた頃であったが、車中で発明上の名案を得た佐吉はもはや汽車に乗っていることも忘れてしまった。
ふっと汽車が停まって気が付くと、大阪を通り越して西ノ宮だった。佐吉は早速支度をして下車し、次の上り列車に乗り込んだが、やはり前の考案を続けているうちに、またもや大阪を通過して、気が付くと吹田駅へ来ていた。
「またしくじったか」と、あわてて下車した佐吉は、駅員に事の次第を告げて、乗車賃を支払い、次の下り列車に乗せてもらった。
だが、佐吉は汽車が動き出すと、もう大阪を忘れていた。ふと気がつくと、プラットホームでワッと歓声が上がっている。
「東郷大将ばんざーい」
と破れるような騒ぎなのだ。
見ると、そこは梅田駅だったので、佐吉は気が付いて下車した。そして、自分の乗った列車に東郷司令長官が乗っていたことを知って、プラットホームの群集の中に立って大将の出征を祝福したのであった。
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