この年は佐吉が名古屋で創業したが、同年に、これまたドエライ商人が創業した。その商人とは、服部兼三郎(かねさぶろう)という。この人物を語らずして、名古屋の商人史は語れない。また今日の大トヨタ自動車もなかったかもしれない。
まず、この人物の写真を見て欲しい。いかにも気迫のこもったお顔である。明治人の気骨が溢れている。
この兼三郎の盟友だったのは、豊田佐吉である。二人は、認め合う仲で、頻繁に合っては酒を酌み交わしていた。乙川綿布合資会社の石川籐八も交えて、世間では〝三幅対〟(三幅で一組になる画軸・掛け物)といわれるほどだった。
3人寄れば、2日でも3日でも徹底的に飲んだという。飲むときは、日本の将来を憂う話題ばかりで、軽口をたたく雰囲気もなかったとか。
兼三郎は明治3年(1870)の生まれだから、佐吉より3歳年下だった。丹羽郡北野村(現・江南市)で生まれた。叔父には祖父江重兵衛(現在の糸重)という有力な繊維商人がいて、呼ばれて名古屋に出てきた。兼三郎15歳の秋だったという。
生来利発な兼三郎は、すぐ頭角を現し、手代、番頭へと登っていった。明治22年には娘婿として迎えられた。だが、兼三郎は仕事ができたが、遊びも激しかった。酒を飲み、芸者遊びも絶えなかった。そこで主人は明治27年に断腸の思いで離縁、解雇した。
だが、結果として兼三郎は明治27年、服部兼三郎商店を創業し、独立することができた。創業の地は、八百屋町だった。八百屋町とは、現・中区栄2‐3付近で、広小路長者町の交差点を南に歩いてすぐの近辺である。
この明治27年に創業したのは、兼三郎にとり幸運だった。日清戦争後に日本の繊維産業は、大発展するからである。外国綿花を安価に仕入れ、大陸に目がけて綿紡を輸出することで飛躍する。
兼三郎は明治34年には、宮町1丁目(現・中区錦3‐10。十六銀行名古屋支店の南側のブロック)に移転し、商いを拡大した。
佐吉との出会いが何時だったのか不明だが、明治27年に佐吉が名古屋に出てきた頃だったかもしれない。佐吉は明治29年に小巾動力織機を完成させた。兼三郎はその織機を大量に購入した。また、兼三郎は、佐吉に対して、開発資金を惜しげもなく融資した。つまり兼三郎の支援なくして、佐吉の織機開発も困難であったのだ。兼三郎は佐吉の支援者だった。
日本は日露戦争後に恐慌に陥ることになる。だが、綿布の貿易に限れば、輸出熱はますます高まり、明治42年には遂に輸出額が輸入額を凌駕するに至った。日露戦争後の10年間は、日本の繊維産業は大いに伸びた。
兼三郎は、大陸に進出して市場を拡大し、時代の流れをつかんだ積極的な商いにより、事業を伸ばした。おかげで明治末において、先発を追い越して名古屋で指折りの商人にのし上がった。
大正元年(1912)には、株式会社服部商店を設立した。
だが残念ながら兼三郎は、第一次世界大戦後の大正9年に自殺した。強気一点張りだった兼三郎だったが、繊維製品の相場暴落で打撃を受けて、自らの命を絶った。
遺書には「三輪常次郎は専務として、今後の万事をしかるべく処理すること」と書かれてあった。その時に番頭だった三輪常次郎が再建して発展させたのが、今日の興和である。三輪常次郎は、兼三郎の遠縁だった。
先に名古屋電燈が設立されて電気を供給していたが、それと競い合うように後発の愛知電燈が明治27年(1894)に設立された。そして同年に営業開始した。
同社設立の背景には、名古屋電燈の〝殿様商売〟があった。当時の最大ユーザーは大須の遊郭であった。その遊郭は、石油ランプを全廃して電灯に切り替えた。その際に名古屋電燈に単価引き下げ交渉を行ったが、規程を楯に拒否された。これに怒った関係者が愛知電燈を設立したわけだ。
それ以降、両社は値下げ競争に突入することになる。
この両社は結局合併することになる。明治29年には名古屋電燈が愛知電燈を吸収合併した。
だが、その新生「名古屋電燈」は、それ以降にも挑戦を受けることになる。東海電気という新たな電力会社が登場してくるのが明治33年である。
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