“名古屋美人”という言葉をご存じだろうか? 実は明治から大正にかけて、名古屋出身の女性は、東京などの花街で活躍して“名古屋美人”としてもてはやされた。
東京では、芸者置屋、料理屋、待合(貸席業)などのある花街が浅草とか、新橋、神楽坂などにあった。特に新橋は、維新の志士との付き合いが深く、伊藤博文などの元勲がよく遊んでいた。
その花街で、名古屋出身の女性が人気があったようだ。やがて東京の芸者を駆逐するまでになり、東京の花柳界の女性の6割が名古屋出身者になった。東京の花柳界では名古屋弁が隆盛を極め、名古屋弁が名古屋美人の証として使われていたとか。
名古屋美人の名声が日本全国を席巻していた時代に、3人の有名女性が登場する。西川嘉義(かぎ)と豊竹呂昇(ろしょう)、公爵夫人の桂可那子である。美人となれば、写真を見てみたいのが人情である。探してみたところ、西川嘉義は見つけられなかったが、豊竹呂昇と桂可那子は見つかった。
日本舞踊の名門・名古屋西川流一門の名手とうたわれたのが西川嘉義だ。
初代の鯉三郎が一門の柱として頼んだのが織田幾という人で、西川という名字の使用まで許した。嘉義はその幾の養女だった。
嘉義は、文久4年(1864)に生まれた。名古屋の西川流の初代・西川鯉三郎に師事し、明治17年(1884)名取となり、明治41年師範総代として坪内逍遥の招きで東京音楽堂で舞った。盛栄、睦、朝日連などの芸者衆の稽古を、鯉三郎の代理として務めた。
初代の西川鯉三郎は、明治32年に亡くなった。その跡目争いが起こり、嘉義派と石松派が正面衝突した。そのようなトラブルもあったためか、嘉義は大正10年(1921)に自殺した。58歳。本名は織田かぎ。旧姓は竹村であった。
〔参考文献『鯉三郎ノート』〕
桂太郎といえば、内閣総理大臣まで務めた人だが、名古屋に縁が深い。陸軍第3師団長だった当時に、名古屋の女性を見初めた。その女性とは、上前津の料亭香雪軒の娘の可那子だ。その香雪軒は、現・中区大須4‐12(名古屋市獣医師会館付近)にあった。明治10年(1877)の開業で、八勝館と並ぶ料亭で、政財界の大物を乗せた二頭立ての馬車が毎夜のように止まった。
明治23年に、桂が陸軍第3師団長になった際に、名古屋財界の有志で大歓迎会が香雪軒で開かれた。その際に可那子を見初めた。
もっとも、桂は「英雄色を好む」という言葉どおりで、女性関係も激しい方だった。最初の妻歌子との間に1男2女をもうけた。2番目の妻貞子との間に1男2女をもうけた。可那子は3番目の妻になるわけで、明治24年より事実婚し、31年には正式に結婚して、その間には2男1女ができた。
豊竹呂昇は、本名が永田仲子で、明治7年(1874)に名古屋上宿(西区江川端町。浄心の交差点の東南側で現・城西4丁目)で生まれた。13歳で浪越太夫(後の5代目竹本土佐太夫)に見込まれて「仲路」と名乗り、本格的な義太夫の稽古を始めた。17歳で結婚したが、離婚して名古屋へ帰り、心機一転、義太夫に専念した。
女義太夫は、近代日本の市井に咲いた華やかな世界だった。
文楽は、義太夫節を語る太夫と伴奏の三味線、そして人形遣いの三者が一体となって繰り広げる人形浄瑠璃だが、これに対して女義太夫は、女太夫と三味線だけの素浄瑠璃だった。人形を用いずに、その語りと三味線の響きだけで、近松門左衛門らが描いた義理と人情のドラマを舞台に発現した。
江戸時代初期に始まる女の浄瑠璃は、幕府の命で2度にわたって追放されたあと、明治10年、女芸人の活動が公然と認められると同時に華々しく復活、明治中頃から大正にかけ、絶頂期を築いた。
それは、一人の太夫が何人もの登場人物を語り分ける技芸としての人気はもちろんのこと、女太夫の容色と美声が相まった一種のショー的な魅力も併せ持っていた。
呂昇は明治31年に上京し、人気を一身に集めるまでになった。その時、呂昇25歳。以後10年間が豊竹呂昇の全盛時代で、その美声と節回しが一世を風靡した。東京では大劇場に進出して成功。全国各地を巡業して女義太夫日本一の大スターとなる。明治40年以後、有楽座での名人会では常に花形として登場した。大正2年(1913)に松竹の専属となり、北海道から朝鮮に進出し、レコードは驚異的な売れ行きを示した。大正12年に引退し、昭和5年(1930)に死去した。
〔参考文献『名古屋の芸能史跡』〕
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