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大正14年(1925)

ラジオ放送始まる

 3月1日、東京で社団法人東京放送局(のちのNHK)がラジオの試験放送を開始した。放送は午前9時過ぎから芝浦の東京高等工芸学校(千葉大学の前身)内の仮放送所で行われ、海軍軍楽隊のマーチの後、緊張したアナウンサーの第一声が流れた。続いて天気予報や前日の火事のニュースなどが次々と読み上げられた。6月には大阪で、7月には名古屋でも放送が始まった。

 名古屋放送局は中区南外堀町で建設され、名古屋商業会議所において開局式を挙行した。聴取料は1カ月2円だった。

 大正15年(1926)には、日本放送協会が設立された。このNHKの総裁の座に座り続けたのは近衛文麿だった。初代総裁だった後藤新平が辞めた後、しばらく総裁職は空白だったが、近衛文麿は昭和11年(1936)に第2代総裁に就任し、大々的に総裁就任披露パーティーを開いた。

 翌12年には、第一次近衛内閣を組閣するが、昭和14年1月、近衛文麿は首相を辞職する。それでもNHKの座を離さなかった。そして昭和20年12月、A級戦犯に指名された当日服毒自殺を遂げるまで、日本放送協会の総裁の座にあった。

 近衛はラジオを使いながら、勇ましい言葉を発し続けた。彼がお手本にしたのは、同じくメディアを使ったアドルフ・ヒトラーだった。〔参考番組 NHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」(NHK 平成23年放送)〕

その頃、豊田は…上海工場が暴徒に襲撃され犠牲者が出る

 上海で反日暴動が起きたが、2月15日についに暴動が上海豊田紡織廠にまで波及した。当時の記録には、「社員のうち、2両目の自動車にありし、原田、堀江、田中、森、市橋、竹谷、三好の7名は、途中にて暴漢のピストル弾を受け、三好は胸部を狙撃されて重態、市橋、森を除く4名は篠崎病院に入れ看護につとむ。竹谷、原田はやや重く、田中、堀江は軽症、森、市橋は微傷。その内原田は遂に死亡せり」とある。

 この時、西川秋次は、被害者の1台先を走っていて難を免れた。

 豊田佐吉には軽い中風の発作があり、名古屋の自宅にて静養中であったが、上海工場の災難を聞いて見舞いに行くといってきかず、周囲の者たちの忠告を退けて、不自由な体で工場に現れ、西川秋次の案内で被害状況を見回り、奮闘した社員に特別功労賞状と金一封を出した。

 この年、豊田家に朗報があった。佐吉の息子の喜一郎に待望の長男が誕生した。大正14年(1925)2月27日に男子が生まれ、章一郎と名付けられた。

 佐吉は10月、帝国発明協会へ蓄電池の発明懸賞金の100万円を寄付した。〔参考文献『西川秋次の思い出』〕

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大正12年(1923)

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大正14年(1925)

ラジオ放送始まる
その頃、豊田は 上海工場が暴徒に襲撃され犠牲者が出る
自動車開発資金を上海から送り続けた西川秋次
その頃、名古屋は 南大津通で「松坂屋」が開店
<この年に誕生した会社>
親子三代で激動の時代を乗り切った 黒田精機製作所
<この年に誕生した会社>
日露戦争の旅順攻略で活躍した軍人が創業 橋本製作所
<この年に誕生した会社>
愚直にモノ創り 中部精機製作所

大正15年(1926)

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