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第2部 日清・日露戦争時代/1903(明治36年)

その時、名古屋商人は

瀧定名古屋の初代定助が家憲を遺して逝去

 瀧定は、タキヒヨーと並ぶ繊維問屋として大発展したが、その初代の定助が明治36年(1903)に亡くなった。家憲を遺しての旅立ちだった。

東万町
明治時代に瀧定の本店があった東万町は、現中区丸の内
2丁目である(●は当時の場所)

 定助は元治元年(1864)から東万町(現・中区丸の内2丁目)に住み、呉服太物卸商を営み始めた。慶応3年(1867)、二代目の滝兵右衛門から財産分与を受けて独立した。

 定助は蓄財が巧みだった。資産は、本業の呉服卸売業、金融業、不動産投資という3つに分けて管理した。本業の呉服卸売業で儲けた資金を、主に不動産に投資した。

 瀧定社史には、次のような数字も載っている。瀧定の商業部の決算書である。

 売上高 明治27年度40万円 → 明治38年度129万円
 利益金 明治27年度5千円 → 明治38年度4万3千円

 27年度から38年度の間には、途中で赤字を出した年もあったが基本的に右肩上がりでガッチリ稼いでいる。

 明治15年には、名古屋銀行の設立に参画した。同族の滝兵右衛門とは、行動を共にすることが多く、この時もそうだった。

 晩年の明治36年には、10月に家憲宣誓式というのを盛大に挙行した。瀧家の大家族としての基盤を確立し、一族の融和を強く要望した。そして翌月の11月に逝去した。

 家憲は、全37条に及ぶが、その要点を摘記すれば、次のような内容だ。

 ①宗家分家を問わず、一家を維持するの任に堪えざる者は之を廃し、同族会および親族会の決議により相続者を決める。

 ②浮利を追わず家徳を重んじ、同族は不和合無く互いに実意と義務を重んじ、永遠の協和を保持すべきこと

 このように見てみると、その内容は意味深く、思わずナルホドと納得させられる。定助はこうして58歳の生涯を閉じたが、後の後のことまで考え抜いた〝人生の達人〟だった。この教えが守り抜かれて、今日の瀧定になっていくのである。

 その後は、長男正太郎が家督を相続し、二代目定助になった。明治39年に瀧定合名会社を設立した。本店は東万町3丁目だった。なお、現本社所在地(中区錦2‐13)に移ったのは昭和11年(1936)のことである。

 また、初代定助の四男の定四郎は、名古屋商家の名門・小出ともの養嗣子となり、後に相続して小出庄兵衛を名乗ることになる。小出庄兵衛は、丸栄につながる商人である。

 なお、平成24年(2012)に名経営者といわれた瀧季夫(瀧定名古屋会長)が逝去したが、この季夫は初代定助の孫にあたる。瀧定名古屋の現社長の昌之氏は、その長男である。〔参考文献『瀧定百三十年史』〕

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序文

第1部 明治前期

第2部 日清・日露戦争時代

明治27年 日清戦争勃発
その時、名古屋商人は・・・
明治名古屋を彩る どえりゃー商人 服部兼三郎
明治28年 日清戦争勝利
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 中日本氷糖
明治29年 ロシアに対して軍備拡張
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 サカツコーポレーション
この年に創業 馬印
明治30年 金本位制確立
その時、名古屋商人は・・・
明治名古屋を彩る どえりゃー商人 山田才吉
明治31年 欧米列強が中国侵略
その時、名古屋商人は・・・
明治名古屋を彩る どえりゃー商人 大隈栄一
明治32年 義和団が台頭
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 カゴメ
この年に創業 天野エンザイム
明治33年 清が、欧米列強に敗北
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 松風屋
この年に創業 オチアイネクサス
明治34年 ロシアが満州を占領
明治35年 日英同盟成立
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 岩田商会
この年に創業 チタカ・インターナショナル・フーズ
この年に創業 東海廣告
明治36年 日露開戦前夜。大須の遊郭で大火
明治37年 日露戦争始まる
明治38年 日本海海戦で勝利

第3部 明治後期

第4部 「旧町名」を語りながら