第3部 江戸時代中期の部/その6、上杉鷹山 財政再建に成功

その時、名古屋商人は

この頃創業した会社・森本本店

森本本店 森本敏郎会長江戸後期の弘化から昭和初期までの店員の氏名や出身地・身元引受人が
載っている名簿を手に持つ会長の森本敏郎氏。右側の写真は明治時代の
財界サロン・九日会の記念写真で、三代目の善七が写っている

 バッグ・財布・服飾雑貨の森本本店は、天明元年(1781)の創業だ。

 創業者の初代森本善七は知多郡の出身で、「笹屋」を創業し、小間物を扱うようになった。小間物とは、かんざし、鼈甲などの和装品である。創業の場所は、鉄砲町(現・名古屋市中区栄2)だ。

 商いを伸ばしたのは、二代目善七の代だった。二代目は、小間物のほかに袋物、和装小物(半襟、帯締め)などの装飾品の取り扱いにも乗り出した。慶応4年(1868)には、尾張藩御勝手御用達格の商人に格付けられた。明治以降、二代目善七の活躍はますます目立つようになる。尾張藩は明治元年(1868)、藩の特産品を奨励する目的で勘定奉行所内に「国産係」を設けたが、二代目はその際にも「国産御用達」に任命されている。

 いよいよ本格的な発展を遂げたのは、三代目善七の代だった。三代目は、本業のかたわら財界人としても活躍した。明治14年に愛知県議会議員選挙で初当選し、大正元年(1912)から昭和3年(1928)まで貴族院議員を歴任した。明治19年に名古屋株式取引所の頭取に就任した。明治20年には名古屋銀行(東海銀行の前身の一つ)の頭取に就任した。当時銀行は第一次世界大戦後の困難な時代で、銀行の取り付け騒ぎが起きることがよくあったが、堅実経営で名の通っていた名古屋銀行でも、その難に遭うおそれが無きにしもあらずで、三代目善七は私財を投げ打って、それに供える準備をしたほどであった。明治44年には日本車輌製造の社長にも就任した。

 四代目善七は婿養子であった。東京大学法学部卒で三菱商事に勤めた俊英で、請われて森本本店に入った。この四代目はいってみれば中興の祖のような存在だった。昭和初期より通信販売を始め、中国・台湾・南洋諸島・樺太などへ販路を拡大した。カタログを使った通信販売は当時前例のない試みであったという。だが、四代目の時に戦争で被災した。店舗は焼失し、一時休業に追い込まれた。終戦直後は、中区大須の万松寺にて再出発。三代目、四代目ともに自社の店員を重んじ、その能力を活用したものである。通信販売も、店員の自発的発案を採用したものにほかならなかった。

 現在の森本敏郎会長は、五代目にあたる。四代目が昭和28年(1953)に死去したので、24歳という若さで経営の第一線に立った。昭和29年には近代的様式の店舗に改装してセミセルフサービス方式を採り入れるなど、好評を博した。現社長は、岡田康男氏。同族ではないが、会長に見込まれて抜擢された。現在は、バッグ・財布・服飾雑貨・バラエティグッズなどを量販店や専門店に卸売している。本社は、平成17年(2005)に一宮市浅野字西大土96に移転した。

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第4部 江戸時代後期の部

第5部 特別インタビュー