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第4部 江戸時代後期の部

寛政12年(1800)
その1、伊能忠敬 日本地図の制作に乗り出す
――その時名古屋は・・・幕府の押し付け藩主・斉朝が就任

50歳から地図作りに挑戦! 伊能忠敬

 伊能忠敬は、隠居後50歳を過ぎてから江戸に出て、西洋天文学・西洋数学・天文観測学・暦学などを学んだ。55歳から71歳まで、17年間全国各地を測量し、国家的大事業である『大日本沿海輿地全図』を完成させた。

 この大事業を達成した忠敬の生涯を辿ってみよう。

 伊能忠敬が生まれたのは延享2年(1745)。実家の小関家は、上総国山辺郡小関村(千葉県)で名主であった。次男であった忠敬は18歳の時に、酒や醤油の醸造などを営む地元の名家伊能家へ婿養子として入った。その頃の伊能家は経営不振に陥っていたが、忠敬は商才を発揮し、江戸にも出店をつくるなどして伊能家を見事に立て直した。

 50歳になった時、家督を長男に渡して隠居の身となり、若い頃からの望みであった学問を志した。この当時の日本では、西洋の近代科学である洋学が多くの人々の心をとらえていた。その中に、天文学者として知られていた高橋至時がいた。寛政7年(1795)に至時が幕府天文方として大坂から江戸へ来ることを知った忠敬は至時の門を叩き弟子入りした。忠敬は至時より19歳も年上であった。

 当時の日本は鎖国政策をとっていたが、通商を求める外国の艦船がしばしば日本近海へ現れていた。特に南下政策を進めるロシアを警戒した幕府は、蝦夷地の測量を行うが、正確な地図を作ることができなかった。

 そんな折、至時は幕府が欲しがっている蝦夷地の精密な地図を作ろうと思い、その仕事を忠敬に任せようと考えた。もちろん忠敬は喜んで引き受けた。

 寛政12年(1800)、忠敬56歳の時に江戸を出発し、地図を作るための測量を開始する。最初の測量地は蝦夷と東北、北関東であった。出来上がった精密な地図によって、幕府からの支援が強化され、全国測量を命ぜられた。

 忠敬は、測量のため当然、名古屋にも訪れている。それは次の2回である。

 第4次測量〔享和3年(1803)当時59歳〕東海道‐沼津‐太平洋沿岸‐名古屋‐敦賀‐北陸沿岸‐佐渡‐長岡‐中山道 219日間 

 第7次測量〔文化6年(1809)当時65歳〕中山道‐岐阜‐大津‐山陽道‐小倉‐九州東海岸‐鹿児島‐天草‐熊本‐大分‐小倉‐萩‐中国内陸部‐名古屋‐甲州街道

 測量は文化13年(1816)まで10次にわたり続けられた。忠敬は文政元年(1818)に没するが、その編集作業は門弟達に引き継がれ、文政4年、大日本沿海実測全図と大日本沿海実測録を完成、幕府に献上された。

 忠敬は生前に幕府から帯刀を許されたが、刀の影響で磁石が狂うということで腰に差していたのは竹光(竹を削った刀)であった。[参考サイト「千葉県佐原市立伊能忠敬記念館のサイト」]

幕府の押し付け藩主・斉朝が就任

 九代藩主宗睦の後に十代藩主となったのは、斉朝だ。斉朝は、将軍徳川家斉の弟、一橋治国の長男である。寛政12年(1800)、養父宗睦の死去により、尾張藩の家督を相続した。

 斉朝は藩財政の建て直しに関して、人気取り政策とか無責任と批判されても仕方がない問題の先送りを何度も行った。斉朝の藩主の就任直前のことではあるが、尾張藩は寛政11年、世禄制の復活に踏み切り、御目見以上の家中は、勤役年数や実子・養子にかかわらず、本高・役料高ともに家禄として子孫に相続させた。また現物の米を支給されていた軽輩の者については、切米、扶持方とも俵数に直し、これを半減して子孫に支給することにした。この世禄制が復活したことによって、家中は最低限の生活保障を得た。だが、財政支出は増大した。

 第3部でも述べたように、尾張藩は、九代藩主宗睦の時代である寛政4年に、藩札「米切手」の発行に踏み切った。だが藩は、幕府が定めた総発行額を守れず、逆に寛政11年には、幕府から10万両の融資を受ける有様だった。

 こうして尾張藩は、十代藩主斉朝から、十三代藩主慶臧の時代までの50年間、財政難の中で、藩札「米切手」の始末に追われていく。

 斉朝が就任した翌年の享和元年(1801)には、金5万両、米6万石が不足し、29万両の藩債がかさんでいた。世禄制による財政負担も大きかった。斉朝は、寛政12年および享和元年の2回にわたって、商人に1万3千両の調達金を課した。

 享和2年、新たに在郷の富商を参加させて、米切手の保証と正金引き替えを彼らに委ねた。商方会所(本町3丁目)と農方会所(本町1丁目)を置き、以後両会所において米切手と正金の引き替えを担当させるようにした。会所が米切手の正金への兌換を保証したものだった。この両会所で取り扱う新札には、それぞれ農・商の添印を押し、これを農印切手・商印切手として流通させた。商方会所は、菱屋太兵衛、水口屋伝兵衛、駒屋小左衛門、十一屋庄兵衛、伊藤屋次郎左衛門、麻屋吉右衛門、菱屋喜兵衛、小西利左衛門、升屋彦八、笹屋惣助によって構成されていた。名古屋商人は、問題先送りを続ける藩の尻ぬぐいに追われた。

 藩における準備金のないまま発行された米切手は、富商の保証を付けてもあまり信用されなかった。文化5年(1808)、商方会所において、引き替え資金の枯渇により業務停止の事態に陥った。藩は富商349人から、11万両の調達金を徴収した。

[参考文献『近世名古屋商人の研究』(林董一 名古屋大学出版会)]

コラム

徳川慶喜
『絵本駱駝具誌』より 
高力猿猴庵著・画
(名古屋市博物館蔵)
大須観音でラクダが見せ物に

 ラクダは、文政4年(1821)にオランダ船によって長崎に持ち込まれた。見せ物になって、名古屋には文政9年にやってきた。大須観音の門前の会場は、お祭りのような騒ぎになった。入場料は32文(800円ぐらい)だった。
[参考文献『開府400年特別記念 名古屋400年のあゆみ』(名古屋市博物館)]

その時、名古屋商人は

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第4部 江戸時代後期の部

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