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第3部 江戸時代中期の部

明和4年(1767)
その6、上杉鷹山 財政再建に成功
――その時名古屋は・・・九代藩主宗睦が財政再建に失敗

鷹山が上杉家の再建に乗り出す経緯

 上杉家の米沢藩(山形県)は、財政が逼迫し、八代重定は幕府に封土の返納を決意したほどだった。この救いようもない窮乏期に高鍋藩(現・宮崎県)から養子に迎えられたのが鷹山だった。

 赤穂浪士の討ち入りで有名な吉良上野介義央の長男は米沢藩に養子に行き、四代目藩主上杉綱憲となって上杉家を相続した。ところが義央の次男が急逝したため、綱憲の次男が義央の養子となって吉良家を相続する。九代目藩主上杉鷹山は、義央から数えて四代目の子孫にあたる。

 上杉家は関ヶ原の戦いで西軍に味方したため、会津から米沢に転封され、120万石から30万石に、さらに15万石に減封された。ところが120万石の格式だけは踏襲されていたため、藩の財政は傾き、借金だらけとなっていた。

 鷹山が九代目藩主となったのは明和4年(1767)、弱冠17歳のときであった。この時、米沢藩の借金は20万両、現金収入は3万数千両しかなかった。藩主になるや鷹山は徹底した倹約を実行した。参勤交替の行列人数を減らし、衣服は木綿、食事は一汁一菜、奥女中の数も6分の1近くに減らした。もちろん藩主自らの生活費も7分の1まで節約した。しかし、出費を減らすだけでは限界がある。そこで収入を増やすため新田開発を行った。荒地の開墾や堤防の改修などには家臣も参加させた。こうした改革に不満を持つ家臣もいたが、それをはね除け改革に邁進した。

 鷹山は天明5年(1785)、35歳で隠居した。その年は、冷害で全国的な大凶作だった。飢饉は天明3年から続いており、同年の米沢藩の米収は例年の半分にも満たず、翌4年の米価は一俵が平年の2倍から5倍にもはね上がった。米の不作を見越した鷹山は、農民に対して大麦を蒔くように命じた。大麦は冷害に強い作物だったからだ。

 江戸時代には冷害、旱魃、水害などで度々飢饉が発生している。その中でも天明の飢饉は東北地方を中心に大きな打撃を与えた。飢饉になる何年か前から天候不順によって不作が続き、農村部は疲弊していた。そこへ天明3年、岩木山(青森県)と浅間山(長野県)が大噴火を起こし、日本列島を火山灰が覆った。その結果、各地で日照不足となり、翌年の農作物の収穫を妨げることになった。天明の飢饉による全国の餓死者は100万人近くに達したという(NHKアーカイブス「歴史発見・繁栄の代償・天明大飢饉」より)。しかし、米沢藩からは一人の餓死者も出すことがなかった。

 鷹山は隠居後も藩財政の再建に向けて粉骨砕身した。最初に取り組んだのは漆蝋を特産品にして全国に売り出すことだったが、これは失敗した。その失敗に懲りた鷹山は、綿密に市場調査をした上で、新たな特産品の開発に取り組んだ。鷹山の執念は、ついに一つのヒット商品を生み出した。それは織物だった。米沢織の名で知られる絹織物だった。

 鷹山は文政5年(1822)に死去した。改革を始めてから既に55年が経っていた。米沢藩の財政再建が成し遂げられたのは、その後であった。[参考文献『小説 上杉鷹山』(童門冬二 集英社文庫)・参考サイト「米沢市上杉博物館のサイト」・「米沢商工会議所のサイト」]

九代藩主宗睦が財政再建に失敗

 宗睦は、宝暦11年(1761)九代藩主になり、先代の宗勝が家中に対して出していた倹約令をそのまま継承した。自分自身も、朝夕の膳を一汁三菜と定めるなど、財政難が大きな課題になっていることを家中に知らしめた。

 宗勝の晩年に多少改善していた財政は、宗睦の代になると再び赤字に転落した。宝暦12年には、1万両の赤字に陥った。そこで宗睦自身が藩主の生活費を2千両にまで節減した。また、農政改革を行い、年貢米増収を図るとともに、倹約を実行したが、財政はなかなか回復しなかった。これまで財政窮乏の際には、家臣の俸禄を削減したり、富商や富農に調達金を課したりしたが、それも限界に近付いていた。

 宗睦は、膨張を続けてきた藩の行政機構そのものにもメスを入れた。明和2年(1765)には薬園奉行を、明和3年には苗木奉行を廃止した。だが、行政改革にもかかわらず、藩財政は一向に改善する兆しがみられなかった。
明和2年には4月と7月に庄内川が決壊した。藩は明和3年、幕府から2万両を借り入れた。また富商から金5千両を調達するとともに、再び倹約令を発した。明和4年7月には、再び領内が大洪水に見舞われた。

 明和4年から天明8年(1788)までの22年間に、富商から調達した22万両は、寛政3年(1791)の米金総収入額の26万両に匹敵する数字であった。藩は、債務整理の手段として、それまでの調達金はすべて無利子とし、既に支払った利息金のすべてを元金に見積もるようにした。

 藩は、ここで「米切手」の発行を検討した。家中には米切手の発行に反対する意見があった。だが、それでも発行を決めた。

 藩札の発行は、いってみれば問題の先送りだった。「商人に調達金(藩の借財)を課す→藩債が増える→藩札を出す→藩札で藩債の返済をする」という安易な資金調達方法であった。米切手は、兌換準備金無しの空手形だった。藩は商人に対して米切手の通用を藩内で奨励するとともに、城下の富商伊藤屋忠左衛門ら5人を「御勝手方御用達」に任命し、富商の経済力によって米切手の信用を維持しようとした。しかし、その一方で年貢米を米切手で納めることを禁じた。米切手の発行に際して、幕府から「発行限度米高を12万石、通用年数25年とすること」「米切手を金銀札として使用しないこと」などの条件が課せられた。

 ついで寛政10年には富商20人に御勝手方御用達を命じて、信用を強化した。米切手の偽札も現れた。藩は、発行の翌年の寛政5年には、新札を発行して新旧の藩札の交換を余儀なくされた。

 それでも尾張藩の財政状況は改善しなかった。債務の整理もままならず、経営危機に陥ったため、寛政11年には幕府に15カ年の年賦で10万両の借り入れを要請しなければならなくなった。米切手の正貨に対する価格は低落する一方で、以後60年間ますます藩財政の運用を困難にした。
[参考文献『新修名古屋市史』(名古屋市市政資料館)]

新川の掘削を命じた宗睦

 名古屋は、江戸時代を通じて自然災害が頻発した。特に悩まされたのは、庄内川の氾濫だった。尾張藩内の庄内川水系の堤防の決壊は、慶長8年(1603)から265年続いた江戸時代の間に、40回以上起きている。5年か6年に1回起きたことになる。

 その原因の一つとして尾張藩が開府して以来、瀬戸や多治見などの庄内川の水源地において、窯業の燃料のために山林の乱伐が行われたために、庄内川の河床が上昇し、破堤しやすくなったことがあげられる。また、尾張藩は名古屋城下を守るため、庄内川の南岸の堤防を高くすることで、水が北側に流れるように仕向けていた。だから、洪水は主に庄内川の北側に集中した。

 庄内川水系の中でも特に被害が多かったのは、現在の名古屋市北区味鋺から中小田井にかけての地域だった。宝暦7年(1757)の洪水では庄内川北側の村々で堤防がいっせいに決壊し、支流も破堤したため比良・大野木から清洲一帯まで浸水した。

 河川の改修は切実なものとなり、宝暦11年に藩主となった宗睦は大規模な工事を命じた。工事の内容は、新川の開削、五条川の瀬替、堀川上流部の開削、日光川の切り開きなどだった。

 新川は、庄内川の分流を新たに造ったものだった。味鋺村と大野木村境の堤防を切って洗堰を造り、さらに庄内川に合流していた大山川、合瀬川、五条川を、新規に掘削した新川に付け替える工事を行った。これによって庄内川の洪水は、新川に流れ込むようになり、洪水が減った。
[参考文献『新修名古屋市史』(名古屋市市政資料館)]

藩校の初代督学を務めた細井平洲

細井平洲画像細井平洲画像(愛知県明和高等学校蔵、
名古屋市博物館写真提供)

 江戸時代の儒学者として、また米沢藩中興の祖といわれる上杉鷹山の師として、多くの教えを残している細井平洲は享保13年(1728)、尾張国知多郡平島村(現・愛知県東海市)に農家の次男として生まれた。

 17歳で尾張藩家老竹腰氏の家臣であり儒学者であった中西淡淵に師事し、18歳のとき淡淵の勧めで長崎へ行き、3年間にわたって中国語を学んだ。さらに24歳で江戸へ出て、私塾「嚶鳴館」を開き、学者として知られるようになった。

 平洲の教えは経世済民(世を治め、民の苦しみを救うこと)を目的とし、実学を重んじた。その教えは各地の大名から庶民にまで広く受け入れられ、西条(愛媛県)、人吉(熊本県)、紀州(和歌山県)、郡山(奈良県)などの諸藩に招かれ教えを説いた。

 37歳の時には米沢藩に招かれ、14歳の上杉鷹山の師を務めた。鷹山が人づくりを重視し、さまざまな改革で藩の財政を立て直し、名君と呼ばれるようになったのも平洲の教えによるところが大きかったとされる。

 安永9年(1780)には尾張藩九代藩主徳川宗睦に学問を講じる侍講となり、天明3年(1783)には尾張藩の藩校である明倫堂の初代督学(校長)となった。平洲は藩士だけではなく一般庶民が講義を聴くことを許し、藩内の村々を回り、教えを説いた。督学となった年の秋には郷里に近い横須賀村の寺を講話に訪れ、近在からも千人以上の村人が集まったという(『東海市の民話』東海市教育委員会より)。平洲の教えは吉田松陰、西郷隆盛などに大きな影響を与えたばかりか、明治のキリスト教の思想家内村鑑三も最大級の賛辞で紹介している。
[参考サイト「東海市立平洲記念館のサイト」]

その時、名古屋商人は

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その6、上杉鷹山 財政再建に成功
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