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第3部 江戸時代中期の部

元禄元年(1688)
その1、井原西鶴が日本永代蔵を執筆
――その時名古屋は・・・円空が12万体の仏像創りを誓願

井原西鶴が描いた元禄の商人道

 井原西鶴は、その代表作『日本永代蔵』の中で、元禄時代の商人道を面白おかしく描いている。その一部をここに紹介しよう。

〈ひそかに思ふに、世に有る程の願ひ、何によらず銀徳にて叶はざる事、天が下に五つあり。それにより外はなかりき〉 

 この文章を現代風に訳すと「ひそかに考えてみると、この世の中で人間の願いといえば、何によらず金銀の力でかなわないことといえば、天下に生・老・病・死・苦の五つがあるだけで、それより外にはないのである」(堀切実氏訳)となる。西鶴は、金さえあれば、生・老・病・死・苦以外のことは全部何とでもなると言い切っているのである。士農工商の時代で末端に置かれていた商人としては、大胆な発言である。

 西鶴は、寛永19年(1642)に生まれた。大坂の中流町人の家だった。西鶴が生きたのは、商人が台頭する先駆けのような時代だった。西鶴が生まれた年より6年前の寛永13年、幕府は中国から輸入していた永楽通宝(永楽銭)に代わるものとして、寛永通宝を鋳造した。この寛永通宝の流通によって、金・銀貨を本位貨幣、銭を補助貨幣とする貨幣制度が確立し、完全に貨幣経済の時代となった。

『日本永代蔵』は、元禄元年(1688)に刊行された。第2部でも紹介したように、ほぼ同時代の天和3年(1683)に三井高利が駿河町で「現銀掛け値なし」の商法を始めた。

『日本永代蔵』で描かれている三井越後屋呉服店『新編日本古典文学全集68 井原西鶴集③』(小学館)より『日本永代蔵』で描かれている
三井越後屋呉服店
『新編日本古典文学全集68 井原西鶴集③』
(小学館)より

『日本永代蔵』は、西鶴の浮世草子で、町人物の代表作の一つ。金持ちはいかにして金持ちになったか、町民の生活の心得を飾らずに描いた内容になっている。その中に記されている面白い文章を幾つか紹介しよう。

「普通の町人は、金銀をたくさん持っていることによって、世間にその名を知られるのである。(中略)家柄や血筋にかまわず、ただ金銀が町人の氏系図になるのである。たとえ大織冠藤原鎌足の血筋を引いているにしても、町屋住まいの身で貧乏だったら、猿まわしの身にも劣るのである。とかく町人たるものは大きな幸福を願い、長者になることが肝要である」(堀切実氏訳)

「『四百四病は、世に名医があって、かならずなおすことができるものだ。ところが、人には知恵・才覚のあるなしにかかわらず、貧病という苦しみがあるが、これをなおす治療法はないものか』ということを、ある裕福な人に尋ねてみたら、その人は、『今までそんなことを知らずに、養生盛りを初老の四十の年まで、よくもうかうかと暮らして来られたことだな。診察するにはすこし手おくれだが、まだ見込みがあるのは、お前さんに、ふだんから革足袋に雪駄をはくような実直な心掛けのあるところで、ひょっとして金持になる可能性があるだろう。長者丸という妙薬の処方をご伝授しよう。△早起き五両 △家業二十両 △夜業八両 △倹約十両 △達者七両と、合わせてこの五十両の薬を細かく砕いて粉にし、十分に気をつけて秤目にまちがいのないようにして調合に念を入れ、これを朝晩飲み込んだら、長者にならないということはありますまい」(堀切実氏訳) 
[参考文献『新版 日本永代蔵 現代語訳付き』(井原西鶴 堀切実訳注 角川学芸出版)・『上方商法 西鶴のおしえ』(神保五彌 PHP研究所)]

円空が12万体の仏像創りを誓願

 西鶴は、銭とか女にこだわりながら面白い作品を創作していたが、同じ時代に生まれながら、まったく違った人生観で生き抜いたのが円空上人である。

 円空は、寛永9年(1632)、美濃国に生まれた。幼い頃から仏門に入ったが、長良川の洪水で母が亡くなったことをきっかけとして、山岳修行をしたりするようになった。美濃国を拠点としながらも諸国遍歴の旅を続け、各地の僧侶のみならず民衆達とも交流を深めた。全国を旅する間にさまざまな災厄に苦しむ人々に出会った円空は、彼らのために仏像を刻み歩くようになった。一刀彫という独特の技法で彫られた円空の仏像は、力強く素朴な美しさを持ち、信仰心と民衆への慈愛に溢れた不思議な微笑を口元に浮かべている。

 その足跡は地元美濃・飛騨、近隣の愛知・長野だけにとどまらず、北は北海道から東北・関東、西は近畿を越え中国・四国にも及んでいる。愛知県では、荒子観音(名古屋市中川区荒子町)が、いってみればメッカだ。荒子といえば前田利家の出身地である。

観音菩薩 円空作(荒子観音蔵)観音菩薩 円空作(荒子観音蔵)
『愛知県の円空仏』(郷土出版社 
長谷川公茂編・撮影)より

 円空は、延宝・貞享年間(1673-1688)にかけて荒子観音を数回訪れ、山門の仁王像や千200体を超える木彫仏像を残した。日本全国で現存が確認されている約4千500体の円空仏のうち、実に4分の1以上が荒子観音にあることになる。[参考サイト「円空連合のサイト」・「荒子観音のサイト」]

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第1部 幕末の部

第2部 江戸時代初期の部

第3部 江戸時代中期の部

その1、井原西鶴が日本永代蔵を執筆
その2、松尾芭蕉が『奥の細道』を完成
その3、忠臣蔵
その時、名古屋商人は・・・
この頃創業した会社・材木屋惣兵衛(材摠木材)
その4、近松門左衛門が曽根崎心中を初演
その5、吉宗が享保の改革
その時、名古屋商人は・・・
小売業に転じて成功した、いとう呉服店
この頃創業した会社・中北薬品
この頃創業した会社・八百彦本店
この頃創業した会社・タキヒヨー
この頃創業した会社・伊勢久
その6、上杉鷹山 財政再建に成功
その時、名古屋商人は・・・
夫が死去したため、いとう呉服店に女当主が誕生
「季節番頭」制度を採用して商圏を拡大した岡谷鋼機
材木屋惣兵衛 名古屋別院の再建で大いに儲ける
この頃創業した会社・イチビキ
この頃創業した会社・森本本店
この頃創業した会社・備前屋
この頃創業した会社・日本酒「醸し人九平次」の萬乗醸造

第4部 江戸時代後期の部

第5部 特別インタビュー