第3部 江戸時代中期の部/その5、吉宗が享保の改革

その時、名古屋商人は

この頃創業した会社・八百彦本店

三浦邦雄社長「浅間社前に茶屋あり 八百彦という」と書かれた
江戸時代の絵を持つ八百彦本店の三浦邦雄社長

 仕出し屋の八百彦本店の三浦邦雄社長が大事そうに手に持つのは、江戸時代の絵だ。猿猴庵(江戸時代の名古屋を描いた尾張藩士)が描いた名古屋の城下町絵図である。そこに「浅間社前に茶屋あり 八百彦という」と記されている。

 八百彦本店は、享保年間(1716-1735)の創業である。創業の地は、現在の本社とほぼ同じ場所で、名古屋市西区幅下1‐10‐44。

 江戸時代は、武士など高い地位の人は外食をする習慣がなく、仕出しが利用された。江戸時代の仕出し屋は、八百屋とか漬物屋を兼務するのが一般的だったという。八百彦本店は、城の横という良い立地を活かして、堀川筋西側の商家へお出入りをしながら、併せて青果業、漬物業を営んだ。近くには、名古屋一の富豪といわれた関戸家の邸宅もあり、ひいきにしてもらったようだ。

 現社長の三浦邦雄氏の曾祖父にあたる銀次郎は、明治初年(1868)に仕出し専業になった。現在のような大きな仕出し屋に発展させたのは、現会長の義幸氏だ。戦争で長男が戦死してしまったために、次男で現会長の義幸氏が跡継ぎになった。義幸氏はもともと家業を継ぐ予定がなく、エンジニアの道を歩んでいたので、いってみれば他業界から仕出し屋の世界に飛び込んだ形になった。

 義幸氏が試みたのは、提供の仕方を変えることだった。昭和30年代までは、法事とか慶事で食事を振る舞う時は、調理人がその家まで行って腕を振るっていた。お膳とかお盆などの道具は、顧客が持っているものを使った。だが、そのやり方では1日1回の出張がやっとだった。そこで工場で料理を作り、顧客に配達する形を考え出した。名付けて「膳式割子」という。「お膳に載ったような料理」という意味だ。今では当たり前のことだが、当時では革新的なやり方だったという。

 現社長の三浦邦雄氏は、平成6年(1994)に社長に就任した。平成7年、宗春公が食べた食事を再現した「宗春弁当」を作った。「将軍吉宗と尾張宗春」展が開催されていた時に提供したので、老舗としての面目躍如だった。「閉塞感のある時期だったので、独自の景気振興策で名古屋を発展させた宗春公を蘇らせたかった」という。平成14年には尾張徳川春姫御膳(初代藩主徳川義直奥方の料理を再現)を発表した。

 平成22年2月には、名古屋市東区の徳川美術館に日本料理の「宝善亭」をオープンした。レストランの営業はこれが初めて。

 八百彦本店は現在、百貨店やホテルなどでも販売を行っている。正社員は90人。若い人を採用して徹底的に仕込んで一人前の調理人に育てるという人材育成をしている。味にこだわったヘルシーな料理を出すことで名が通っている。仕出し業界では、もちろん名古屋で最大級だ。

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第3部 江戸時代中期の部

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