第2部 江戸時代初期の部/その1、家康が大坂の陣で豊臣を滅ぼす

その時、名古屋商人は

この頃創業した会社・太田商事

十一代平右衛門正行家訓として「御法度急度相守可申事」
などを定めた十一代平右衛門正行
『商い一筋に』より

 JR刈谷駅の駅前に一際目立つビルがある。OTAという看板が付いている。そのビルの持ち主は、太田商事株式会社のグループ会社だ。太田商事株式会社は承応4年(1655)の創業で、江戸時代から刈谷では指折りの資産家だった。

 太田商事株式会社を経営する太田家の歴史は古く、戦国時代に遡る。織田信長の三男信孝は、豊臣秀吉に攻め込まれて知多半島まで逃げ落ち、野間で自刃に追い込まれた。野間まで逃げ落ちた時、太田一族は落魄の信孝を見捨てずに付き添い、自刃に際しての介錯の役も務めた。その一族の中に「太田和泉守牧陰」という者がいた。それが太田家の祖である。

 信孝の自刃から70年余の歳月が流れた。この間、時代は戦国から泰平の世へと変貌を遂げた。家綱が四代将軍だった承応4年、刈谷で酒造の看板を掲げた者がいた。「太田和泉守牧陰」の孫の徳右衛門である。「和泉屋」という暖簾だった。これが太田商事株式会社の創業である。

「和泉屋」は刈谷でも指折りの酒蔵に成長したが、当時の酒造りは大きなリスクが伴った。積み出した船舶の遭難、米価の変動などである。そこで宝永5年(1708)に酒造業から撤退し、米や木綿など三河で獲れる産物を売る商いに転業した。博奕のようなものには手を染めず、地に足の付いた堅実商法に転じたわけである。

「和泉屋」は、享保6年(1721)には刈谷藩から苗字帯刀を許され、藩の御用達商となった。明和4年(1767)には油類の現金売りを藩に出願し、認められて油問屋も開業した。

 この「和泉屋」は、十一代平右衛門正行が基盤を確かなものにした。正行は息子を連れて登城し、御馬廻り格に任ぜられた。この正行は、次のような定めを制定している。「一、御法度急度相守可申事」「一、博奕諸勝負事致間敷事」などで、項目は40以上に及んでいる。中にはリスクの大きな新田開発を禁じたものや、遊郭通いを禁じたものもある。

 この定めは、平成の時代になっても脈々と受け継がれている。会長の太田宗一郎氏は、刈谷商工会議所の副会頭(平成21年度)を務める名士で「社訓は信用・堅実」「派手なことをすれば反動もある。一発勝負をすれば失敗もある。だから本業専守で、コツコツ商いに励むのが太田家の家風」などと語る。

 太田商事株式会社は現在、鋼材・鉄鋼二次製品・アルミサッシ全般・エクステリア製品・一般金物建材・石油および石油製品・和洋家庭紙類・冷暖房空調機器類などの卸、小売販売をしている。取り扱い品目の構成をみてみると、アレっと思ってしまう。実は江戸時代の「和泉屋」と良く似ているからだ。昔は油問屋だったが、現在はガソリンスタンドを経営している。建材事業も、そのビジネスの源流は江戸時代まで遡る。

 太田商事グループは、刈谷に多くの土地を持っていて、それを活かしたビジネスをしている。先祖から受け継いだものを発展させているのだ。

 本社は、刈谷市南桜町1‐73。

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その1、家康が大阪の陣で豊臣を滅ぼす
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