第2部 江戸時代初期の部/その1、家康が大坂の陣で豊臣を滅ぼす

その時、名古屋商人は

この頃創業した会社・「カクキュー」合資会社八丁味噌

カクキューの早川久右衛門社長「純情きらり」のロケ地になった蔵に立つ早川久右衛門氏

 NHKの朝ドラ「純情きらり」を覚えているだろうか? この番組は、平成18年(2006)のもので、岡崎が舞台だった。主人公の桜子(宮﨑あおい)は、八丁味噌の蔵元「山長」の跡継ぎと結ばれることになるが、そのロケが行われたのが「カクキュー」ブランドの「合資会社八丁味噌」である。

 カクキューは、岡崎市八帖町字往還通69にある。そこは観光バスが次々に訪れるので“観光地”のような雰囲気だ。隣は「株式会社まるや八丁味噌」があり、まさに八丁味噌の郷である。

 カクキューの中に入ると、史料館がある。そこは江戸時代の仕込み風景が人形で展示されている。昔の資料もたくさん集められているが、著者が興味を抱いたのは天皇家との関係だ。明治天皇は八丁味噌が好きで、宮内庁から「ミソ五カンメスグオクレ」(明治26年)という電報をもらっている。日清戦争の際に広島に大本営が置かれたが、明治天皇はそこにも届けるように依頼している。昭和天皇も、大の八丁味噌好きだったようで、その注文書もある。

 桶狭間の合戦とカクキュー。一見何の関係もないような気がするが、大いに関係がある。桶狭間の合戦がなければ、カクキューも、ひいては八丁味噌もなかったかもしれない。というのは、カクキューの早川家は今川氏の家来だったからだ。早川家の初代新六郎勝久は義元に従って三河まで出陣してきたが、今川家は敗れた。新六郎勝久は久右衛門と改名して隠れ住んだ。そこから数えて数代目が八丁味噌を造り始めたそうだ。カクキューは、味噌を造り始めた年である正保2年(1645)を創業としている。つまり360年以上続いてきたことになる。

 そもそも八丁味噌というのは、岡崎市八帖町(旧八丁村)で江戸時代初期より造り続けている伝統的な味噌のことである。大豆と塩のみを用いて大きな木桶に仕込み、代々使い続けてきた川石(丸石)を山のように積み上げて重石とし、二夏二冬(2年間という意味)以上の間、人の手を入れることなく、天然熟成をさせる。ほかの味噌と比べて硬く、大豆の旨味を凝縮した濃厚な味噌である。少々の酸味と渋味、苦味のある濃厚な風味を特徴としている。家康も味噌が好きで、そのお陰で長生きして徳川幕府の礎を築いたといわれている。

 現在の当主早川久右衛門氏は十九代目で、次のように挨拶されている。

「私が先代より経営を引き継ぎました際に考えたのは、この伝統ある会社を絶えさせることなく継続させるにはどのような経営方針を打ち出すべきかとの事でした。先祖代々引き継がれて参りました伝統の技の継承と技術力の向上が必要条件と考えました。経験と勘で築かれた匠の技を後輩達に伝え、また、数字に裏打ちされた技術と管理を取り入れて伝統の味を未来永劫に伝えたいと思っております。八丁味噌は、美容と健康に良い食品として注目されています。八丁味噌の食品としての優秀さと美味しさをご理解いただき、日本の文化の継承と、食文化を通じて社会に貢献し続けたい」

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