第2部 江戸時代初期の部/その1、家康が大坂の陣で豊臣を滅ぼす

その時、名古屋商人は

この頃創業した会社・料亭河文

料亭河文の林左希也社長伊藤博文の豪快な書の横に立つ社長の林左希也氏

 名古屋を代表する料亭といえば、誰もが「河文」を連想するだろう。その河文が創業したのも、この頃である。言い伝えによると、初代河内屋文左衛門は広井村(現・名古屋市中川区四女子付近)で料理店を開業した。そして名古屋開府とほぼ同時期に、現在地の魚の棚通に移転して店を開いた。メインストリートである本町通にも面しているのだから、当時から格式の高い店だったのだろう。

 河文は、尾張徳川家御用達として利用された。河文の敷地内にある井戸には横穴があり、名古屋城に通じているといわれている。いったん事があれば、殿様と家族が難を逃れるために秘密の通路を作っていたというのだ。江戸中期には“魚の棚四軒”と呼ばれたように、近隣に有名な料亭が4軒あったが、今日まで続いているのは河文のみである。

 河文は、明治時代になっても政財界から支持された。伊藤博文など総理経験者も訪れ、博文の書が掛軸として残されている。

 また、明治時代の主な財界人の集まり「九日会」の会合も河文で開かれていたように、河文は財界人から愛されていた。九日会というのは、松坂屋の伊藤次郎左衛門祐昌が中心になって明治時代に作った。単なる親睦の場ではなく、名古屋財界で隠然たる影響力を持っていた。

 現在の河文は、いってみれば“中部地区の迎賓館”のような存在だ。VIPの接待用に使われることが多い。また結婚式はもちろんのこと、長寿や喜寿の祝い事にも使われている。
客室は7つで、その中にはこんなところもある。

水鏡の間―石舞台を臨む開放感のある部屋。庭の代わりに石舞台を持つモダンな池を配し、水面に映る四季の変化を楽しめる。赤坂迎賓館を手がけた谷口吉郎氏がその習作として設計に当たり、畳の配置や造作の隅々まで細やかな配慮が感じられる。

新用亭―安政の大地震で建物が焼失した際、建設用の仮小屋として建てられたものを茶室に転用した、初代用用亭から引き継がれた部屋。「無用のものを用立てた」ことから名付けられ、新築に伴い「新用亭」となった。

 また「河文座」という舞台もある。水鏡の石舞台で、定期的に邦楽、能楽から現代音楽までさまざまな催しを行う場である。料亭として伝統芸能を応援することは大切な役割だという考えから始められた。

 現在の社長は林左希也氏で、十三代目。次のように挨拶されている。

「大事なのは、おもてなしの心。心を込めたお料理とともに、貴重なひとときをお過ごしいただく場を提供していきたい。400年の歴史の中で育ててきた伝統と、時代を映すモダンさが調和した風雅な佇まいのなかで、ゆったりとした時間をお過ごし頂けるようにしたい」「料亭は今も昔も特別なおもてなしの場だが、これだけ長く続いた料亭は全国的にも希。変えて良いもの、良くないものを見極めながら、名古屋の文化を料理を通して守っていきたい」

場所は、名古屋市中区丸の内2‐12‐19。

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