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第2部 江戸時代初期の部

延宝元年(1673)
その2、三井越後屋が現銀掛け値なしの商法で大成功
――その時名古屋は・・・岡谷鋼機が創業

52歳からの出発だった三井高利

 三井高利は、延宝元年(1673)8月、52歳の時に伊勢・松坂から出てきて、江戸本町1丁目に「越後屋」という呉服店を開店した。これは、現在の日本銀行の新館(東京都中央区日本橋本町2丁目)辺りである。当時はここに、江戸城を起点として奥州へ続く道が通っており、呉服店はもちろんのこと様々な店が並び、人通りで賑わっていた。

 高利は「現銀掛け値なし」という新商法を掲げ、呉服の価格を下げ、また、呉服は反物単位で売るという当時の常識を覆し、切り売りをして庶民の人気を集めた。

 当時、大きな呉服店は、得意先に見本を持って行き注文を取る「見世物商い」か、商品を得意先で見てもらう「屋敷売り」をしていた。得意先は、大名、武家、大きな商家で、支払いは、掛け売りだった。この方法は、人手も金利もかかるので、当然商品の価格は高く、資金の回転も悪かった。

 高利は、その逆をいき、店頭での現金取引を行った。この方法なら資金も早く回転し、掛け値もしないので、商品を安く売ることが可能だった。

 しかし、高利は同業者に恨まれ、迫害を受けた。江戸の大火によりこの2店を焼失したのを機に、天和3年(1683)に江戸駿河町に「越後屋呉服店」を開店した。

 呉服に遅れること10年、高利は天和3年に両替店を開設し、ここでも為替取組みの新しい方法を創案した。当時、幕府は、近畿以西の直轄領からの年貢米や重要産物を大坂で販売して現金に換え、それを江戸へ現金輸送していた。また、江戸の商人は、京都や大坂で仕人れた商品の代金を、現金で上方へ送っていた。しかし、輸送は労賃がかかるほか、危険の多い不便なものであったため、これに変わる方法として、高利が幕府に為替の仕組みを献策し、三井両替店は、幕府の金銀御用達としての地位を得ることになった。[三井広報委員会ホームページ、三友新聞社監修より]

西鶴も絶賛した高利の商法

 三井高利の商いは、井原西鶴『日本永代蔵』の中で、次のように絶賛している。

 〈世間が不景気になったといううちにも、無一物から商売をはじめて立派に成功して一流町人になった人がたくさんいる〉

 〈商売替えでもして身代を立て直そうと、それぞれ思案する時節になったのだが、これはまたうまい商いの道はあればあるものである。三井九郎右衛門という男は、手持金の威力で、昔の慶長小判とゆかりのある駿河町という所に、間口九間、奥行四十間に棟の高い長屋造りの新店を出し、すべて現金売りで掛値なしということに定めて、四十人余りの利口な手代を自由にあやつり、一人に一種類の品物を担当させた。(中略)そんなふうであるから、家業が繁昌し、毎日金子百五十両平均の商売をしたという〉

 〈この店の主人をみるに、目鼻手足があって、ほかの人と変わったところもないが、ただ家業のやり方にかけては人とは違って賢かった。大商人の手本であろう〉[参考文献『新版 日本永代蔵 現代語訳付き』(井原西鶴 堀切実訳注 角川学芸出版)]

三井高利が残した遺訓

 三井家では、家憲のほかに商売上の教訓も明文化していた。

「宗竺遺書」というものが残っている。三井家とその事業の繁栄を保持するための基礎的な戒律が細かく規定された三井家の憲法だ。高利の嫡男・高平(宗竺と号す)が亨保7年(1722)11月1日に制定した。和綴じの遺書の形式で著されている。高利の遺書は、次のようなものだ。

一族の和を心がけよ
利益は一族に配分せよ
一族の長を選出せよ
倹約に努めよ
人材登用に最大の注意を払うこと
主人は全業務を知ること
一族の子供も奉公人として扱うこと

 これは、総領家三代目当主・高房が「大商人の手本」と称された父・高平(二代目)の見聞に自らの見識を加え、一族のためにまとめた戒律書だ。

 いずれも、京を中心とする商家に実在した良い商人・悪い商人の例を列挙し、商人がしてはいけないこと、すべきことを具体的に教えている。

 高房は本書の序において「商家の初代というものは、田舎から出て来て裸一貫から、あるいは他人の店で頑張って身を興して商いを拡張し、築き上げた財産を子孫に伝えようと自分の代は倹約に努め、艱難辛苦を乗り越えてひたすら家業に専念するものだ。しかし孫の代ともなると、裕福な環境で育っているので、苦労を知らず、金銀の大切さがわからなくなってしまう」といった趣旨のことを述べている。家が豊かになり基盤が整った後、子孫の気の緩みが家を滅ぼすという事態を、どこの家にも起こり得ることとして心配した。

 下巻では、自らの家業である両替屋について、格別難しい商売であるとし、子孫が少しでも気を抜けば、先祖の偉大な事業を無にしてしまうのだ、と強く警鐘を鳴らしている。

 全体を通して、祖先が大変な思いをして築いた身代をいかに永く存続させるか、という財産第一、家第一主義と、町人らしい現実主義の価値観に基づいている。

 具体的な禁止事項として筆頭に挙げられているのは「大名貸し」だ。文字通り大名家に金銭を貸すことだが、なかなか返して貰えないのが常だった。これが災いして立ち行かなくなった商家は多かったようで、全事例中のほとんどに見られる。あとは遊興、遊芸、信仰への耽溺・没入などを禁じて“町人の分”を守れ、と固く戒めている。[三井広報委員会ホームページ、三友新聞社監修より]

先代の遺志を継ぎ、藩の基礎を固めた二代藩主光友

 慶安3年(1650)、初代藩主義直が亡くなると、その長男の光友が26歳で二代藩主になった。

 光友は、屈強な身体で、大人8人がかりでやっと動く大きな鉢を一人で動かしたことがあったくらいだ。武芸に優れ、特に剣術は柳生厳包より学び、新陰流第6世を継承された。また書も秀でて、素晴らしい能筆家だった。

 光友の治世の初期は、幕府において、三代将軍家光の武断政治から、家綱・綱吉らの文治政治へと移行する時期だった。家光が亡くなった直後に由井正雪の乱が起きたり、明暦3年(1657)には大火に見舞われたりしたこともあり、幕府は御三家の協力を必要としていた。光友も治世の前期では、ほとんど江戸詰めだった。

 幕府が安定するようになってから、万治元年(1658)には国許に帰り、そこから本格的に施政に取り組むようになった。後世に「寛文元年の改革」と呼ばれる改革にも着手した。

 その改革は、代々俸禄が引き継がれる世禄制を廃止したこと、蔵米(蔵米とは、江戸時代、幕臣や藩士らに支給された俸禄米のこと。切米ともいう)の支給を年2回から3回に改めたこと、軍役の一部を改定したことなどだった。特に世禄制の廃止は、財政難の折から、家臣が家督相続する際に、俸禄の削減を行うものだった。

 しかし、大森寺や熱田社など多くの寺社の修築や、焼けた藩邸の修理など、相次いで普請を行ったことが財政難の原因となった。財政難を理由に、藩札を発行し始めたのも、その頃からだ。しかし、その試みは失敗し、藩財政は一層苦しくなった。尾張徳川家は幕府から10万両を借り入れたほどだ。

 光友は、元禄6年(1693)、家督を次男綱誠に譲って隠居した。しかし、元禄12年には綱誠に先立たれるという不幸にも見舞われた。元禄13年、76歳で死去した。[参考文献『尾張の殿様物語』(徳川美術館)]

万治の大火と広小路の建設

 清須越から50年を経た万治3年(1660)、左義長の残り火によって片端筋から出火、伊吹おろしにあおられた火は碁盤割りの城下を舐め尽くした。この万治の大火は左義長火事とも呼ばれ、城下の約9割、2千戸以上の家屋を焼失させた。当時、碁盤割りの城下の南端は現在の広小路通にあたる堀切筋であった。成長を続ける名古屋の町は堀切筋を越えてさらに南へ広がりつつあり、火災は堀切筋を越えた。

 この火災ののち、二代藩主光友は堀切筋をそれまでの3間(約5メートル)から約15間(約27メートル)に広げて防火帯とした。これが広小路の始まりである。当時の広小路は堀川辺りから現在の中区役所辺りまでであった。

その時、名古屋商人は

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その1、家康が大阪の陣で豊臣を滅ぼす
その時、名古屋商人は・・・
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碁盤割商人の歴史と町名
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いとう呉服店の歴史・初代は信長のお小姓
この頃創業した会社・名エン
この頃創業した会社・料亭河文
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この頃創業した会社・太田商事
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その2、三井越後屋が現銀掛け値なしの商法で大成功
その時、名古屋商人は・・・
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この頃創業した会社・ソニーの盛田氏の実家でもあった「ねのひの盛田」

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