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この年に誕生した会社

親子三代で激動の時代を乗り切った 
黒田精機製作所

 「昭和25年のあの日のことは忘れられない。税務署の職員が工場に乗り込んできた。我々があっけにとられて見ていると、工場や自宅にあった機械や家具に赤紙をベタベタと貼り付けた。税金を滞納していたので、差し押さえだった。まさか、そこまでするのかと思った。そして、税務署員がモーターに赤紙を貼った瞬間だ。社員が『俺たちを殺す気か』と詰め寄った。モーターがなくなれば生産できなくなり、仕事ができなくなってしまう。もう殺気だっていたよ」

赤紙が貼られたこともある思い出の机に座る黒田
赤紙が貼られたこともある思い出の机に座る黒田保彦会長

 黒田精機製作所の黒田保彦会長は、腕を組みながら当時の様相を語る。そして「アレがその、言ってみれば記念品だよ」と言って机を指さした。応接間には古びた木製の机がある。アチコチに傷が付いた年代物だ。赤紙はその机にも貼られてしまったので、その〝記念品〟として今でも置いてある。

 保彦会長は、このように終戦後の混乱をつぶさに語ってくれた。だが、黒田精機製作所はもっと歴史が古く、創業は大正14年(1925)だ。保彦会長の父である黒田清三が創業者だ。清三は明治28年(1895)、岐阜の安八郡輪之内町の農家で生まれた。5人兄弟の次男だった。

 なにぶん古い話で定かでないことが多いが、清三は高等尋常小学校を卒業した。その後は、姉が女中奉公に上がっていた関係で、東京の石野清八の家に養子となり、上京した(のちに養子を解消して黒田姓に戻る)。東京では海軍の兵器工廠で働きながら、東京芝浦工業学校の夜間部に通った。その後は名古屋に移った。徴兵で陸軍に入り、除隊してからは日本車輌製造に入社した。そして、はなよ(明治33年生まれ)と結婚した。

 創業の場所は、熱田区沢下町28番地だ。たった16坪の工場で、清三がベアリングケースの穴を開け、妻はなよがペンキを塗った。文字どおり二人三脚での創業だった。

 沢下町は昭和12年(1937)に立ち退きになり、現本社所在地の瑞穂区桃園町4‐26に移転した。昭和14年には、法人化して合名会社黒田製作所を設立した。当時は削岩機を造り、東京の商社・東京工機に納めた。炭坑等の掘削に使う機械で、朝鮮や満州にも輸出された。清三は、海外の人も発音しやすいようにとKUROTAの名前にしたという。

 軍事色が強くなるとともに、清三は軍需関係の仕事に転じた。空襲が激しくなったので、昭和18年には木曽川町に工場を疎開した。現本社の場所は、空襲であたり一帯が焼け野原になった。だが、同社の場所だけは、焼夷弾が不発になり延焼を免れた。幸運だった。このおかげで、戦後はすぐ再開できた。

 保彦氏は、昭和4年8月24日に生まれた。長男だった。昭和21年3月に名古屋工業高校機械科を卒業した。機械科は本来ならば4年間が学業期間だったが、途中で学徒動員になり、うち2年間は北区中切町のアルマイト工業で働いた。そこでは飛行機の板金加工をした。卒業と同時に家業に入社した。「長男だったから、選ぶ余地もなかった」という。

 戦後すぐの昭和21年には、愛知工業(現・アイシン精機)との取引が始まった。当初は、ミシンの部品と、自動車部品の製造だったという。愛知工業は、トヨタ自動車工業と川崎航空機との合弁で昭和18年に東海飛行機が設立されたのが始まりの会社だった。戦後はミシンなどの平和産業に転換した。

 昭和24年は、ドッジラインという経済政策が始まり、日本は最悪の景気に沈んだ。主な取引先だった愛知工業は経営不振に陥り、資金難にあえいだ。黒田製作所は、愛知工業からの支払いが4カ月滞った。揚げ句の果てに、代金の代わりに、株式を買ってほしいとまで言われた。

 そして昭和25年は、試練の年になった。清三が11月9日に病死した。55歳だった。通夜の席で、親戚が保彦氏の母親に「もう工場を閉じた方が良い」と助言したほど経営は悪化していた。

 その時、保彦氏は21歳だった。「継ぐべきか否かという迷いはなかった」「父に喜んでもらうにはどうすれば良いかという点だけを考えた」という。もう無我夢中だった。

 税務署が差し押さえにきたのは、父の死の直後だった。なにぶん社員の給与だけは優先的に支払っていたので、税金まで払う余裕がなかった。当時はGHQの占領下で財産税とかいろいろな税金が課されるようになり、小規模な企業まで重税に苦しんだ。

 昭和26年になると、朝鮮動乱が始まり特需で日本経済が復活した。黒田製作所の経営も好転した。昭和28年、保彦氏は雅子と結婚した。保彦氏は「新婚旅行では箱根に行ったが、箱根から熱海まで行くのにタクシー代が無く、乗り合いバスに乗りました」と笑う。雅子は雅子で「最低でも従業員100人の会社にしたい」と念じ、そこから二人三脚での経営が始まった。

 昭和34年の伊勢湾台風では、工場が水没した。社員の中で犠牲者がいなかったことが幸いだったが、経営には打撃だった。

 その後、日本は高度成長に乗り、自動車産業は発展した。保彦氏は積極的に設備投資を断行した。昭和39年に株式会社黒田精機製作所を設立し、岐阜工場を建設した。岐阜は黒田家の発祥の地で思い入れがあった。工場の操業開始は、奇しくも東京オリンピックと同じ10月10日だった。

 保彦氏と雅子との間には、長男敏裕氏が昭和31年に生まれた。この敏裕氏が現社長である。平成8年(1996)頃、得意先から大幅なコストダウンを求められた時期があるが、敏裕氏は逆にそれを前向きに受け止め、海外部品メーカーと競争できるコスト力を身に付けようと懸命になった。楽にコストダウンを実現できる鉄製ピストンか、あるいはいばらの道のアルミ製ピストンか、将来を左右する重大局面に立たされたが「アルミ製のコストダウンを実現すれば、どこにも負けない武器になる。よしアルミ製でいこう」と、悩んだ末にアルミ製を選択した。この決断のおかげで、世界でも数少ないアルミ製部品の一貫生産体制を確立することができた。

 敏裕氏はアルミの技術力を武器に、自動車部品業界の中では早くから海外展開を行った。平成8年にはタイで合弁会社の設立に参加して、タイでのブレーキ部品、エンジン部品の生産を開始した。次に平成18年に100%出資で現地工場を設立し、アルミ・ブレーキ部品の一貫生産を開始した。主力得意先のアイシン精機のほかにも、ロバート・ボッシュ社とも取引している。

 本社所在地は、名古屋市瑞穂区桃園町4‐26である。

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発刊に寄せて

序文

大正元年(1912)

大正2年(1913)

大正3年(1914)

大正4年(1915)

大正5年(1916)

大正6年(1917)

大正7年(1918)

大正8年(1919)

大正9年(1920)

大正10年(1921)

大正11年(1922)

大正12年(1923)

大正13年(1924)

大正14年(1925)

ラジオ放送始まる
その頃、豊田は 上海工場が暴徒に襲撃され犠牲者が出る
自動車開発資金を上海から送り続けた西川秋次
その頃、名古屋は 南大津通で「松坂屋」が開店
<この年に誕生した会社>
親子三代で激動の時代を乗り切った 黒田精機製作所
<この年に誕生した会社>
日露戦争の旅順攻略で活躍した軍人が創業 橋本製作所
<この年に誕生した会社>
愚直にモノ創り 中部精機製作所

大正15年(1926)

昭和2年(1927)