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この年に誕生した会社

日露戦争の旅順攻略で活躍した軍人が創業 
橋本製作所

 あま市の橋本製作所は、主に板金加工業を行い、三菱重工業などに納入しているが、その歴史は古く、大正14年(1925)の創業である。

 創業者は、橋本惣八郎という。惣八郎は知多の河和の出身で、明治11年(1878)に生まれた。横須賀にあった海軍の学校で学び、機関兵となった。日露戦争前にイギリスに駐在し、造船技術を学んだというから、よほど優秀だったのだろう。

 日露戦争の旅順港の攻略では、巡洋艦「武蔵」に乗り組み、機関兵を務めた。また、旅順港の攻略は、巨大な28センチ榴弾砲で攻撃したことが勝因になったが、惣八郎はこの際に武功を挙げたようで、明治38年に陸軍大将乃木希典から感状をもらっている。「海軍陸戦 重砲隊 橋本惣八郎」と書かれている。海軍軍人でありながら、陸軍大将から感状を受けたのだから、よほどの活躍だったのだろう。

創業者・橋本惣八郎が陸軍大将乃木希典からもらった感状
創業者・橋本惣八郎が陸軍大将乃木希典からもらった感状

 また、惣八郎は東郷平八郎からも感謝の掛け軸をもらっている。これは歴史に出てこない秘史だが、旗艦「三笠」は座礁したことがあるという。それを惣八郎が水中溶接という技術を使って直した。もし、ここで沈没していたら、日本は「三笠」なしでバルチック艦隊と戦わなければならなかった。東郷平八郎も切腹ものだったであろう。その窮地を救った惣八郎に、東郷平八郎が感謝したというわけである。

 日露戦争が終わると、惣八郎は退役した。そして培った技術をもとに、大正14年に合資会社橋本製作所を設立した。場所は現名古屋駅の北側である中村区牛島町だった。燃焼技術が認められて、ガス会社の指定工場となった。

 妻せいとの間には、長男武が生まれた。武は父親譲りのエンジニアで、三菱重工業に入って戦闘機の開発製造に従事した。その後、橋本製作所の2代目社長に就任したが、惜しくも昭和19年(1944)に病死してしまった。

 そのため惣八郎が復帰し、3代目社長に就任した。戦争中の橋本製作所は、戦闘機の大きな工場として発展した。あま市に10万坪の土地をもち、3500人の従業員がいた。重爆撃機の「飛龍」の胴体と尾翼を造っていたという。そのおかげで、戦後はGHQが工場に駐屯した。

 惣八郎は昭和27年に亡くなった。その後は妻せいが4代目社長に就任した。せいは女傑で、付けられたあだ名が「マッカーサー」だという。それを聞いただけでも、思わずビビリそうな存在だ。このマッカーサーは、夫と息子が残してくれた得意先との信頼関係や、培った技術を生かして、業績を伸ばし、発展させた。マッカーサーこと、せいは昭和31年まで社長を務めた。

 その次の社長、つまり5代目社長は武の妻てる子だ。てる子も負けず劣らずの女傑で、付けられたあだ名は「B29」だった。マッカーサーの次はB29だというのだから、周囲も一目置く存在だったのだろう。

 そのてる子の長男が会長の橋本潔忠氏だ。そして、現在は、その長男である篤一郎氏が社長を務めている。

 現在の主な業務は金属の板金加工で、得意先は三菱重工業、高岳製作所(平成24年より東光高岳)、愛知電機など。いずれもご先祖様が築いてきた財産だ。

 本社所在地は、愛知県あま市甚目寺流80である。

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発刊に寄せて

序文

大正元年(1912)

大正2年(1913)

大正3年(1914)

大正4年(1915)

大正5年(1916)

大正6年(1917)

大正7年(1918)

大正8年(1919)

大正9年(1920)

大正10年(1921)

大正11年(1922)

大正12年(1923)

大正13年(1924)

大正14年(1925)

ラジオ放送始まる
その頃、豊田は 上海工場が暴徒に襲撃され犠牲者が出る
自動車開発資金を上海から送り続けた西川秋次
その頃、名古屋は 南大津通で「松坂屋」が開店
<この年に誕生した会社>
親子三代で激動の時代を乗り切った 黒田精機製作所
<この年に誕生した会社>
日露戦争の旅順攻略で活躍した軍人が創業 橋本製作所
<この年に誕生した会社>
愚直にモノ創り 中部精機製作所

大正15年(1926)

昭和2年(1927)