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大正5年(1916)吉野作造が名古屋で民本主義を説く

その頃、日本は…工場法が施行され不十分ながら労働者保護へ

 9月には、我が国初の労働法である工場法が施行された。内容は、12歳未満の年少者の就業禁止、15歳未満の者と女子の労働時間を12時間以内とすること、雇主の災害扶助義務、監督官制度の設置などで、労働者15人以上の工場に適用された。

 日露戦争後、労働争議や鉱山暴動が頻発するに及んで、社会不安の防止や社会主義の浸透抑止などの観点からも、工場法の制定が求められた。明治43年(1910)、政府は議会に工場法案を提出したが、年少者・女子の深夜業禁止をめぐる紡績業者の反対にあい撤回。次の議会では、この規定の適用を施行後15年間猶予し、適用対象も職工15人以上の工場とするなどの妥協を経て、ようやく成立した。ただし、施行期日が定められておらず、5年経ったこの日、ようやく実施にこぎつけた。

 議会での通過に尽力したのは、日露戦争前には工場法反対の急先鋒であった渋沢栄一だった。渋沢は工場法制定について「もう今日はなお早いとは申さぬでもよかろうと思う」と言って、法案を審議する政府調査会の委員を引き受けた。

 しかし、工場主にとって抜け道となる例外規定の多い法律で、零細企業には適用されず監督制度も不備だった。成人男子については労働時間の規制がなかった。
 過酷な労働環境に対する民衆の怒りは根強く、大正14年(1925)には『女工哀史』というルポルタージュが細井和喜蔵によって発刊された。

コラム 名古屋の商家で働く社員の暮らしぶり

 大正時代の商家で働く社員の様子は、興和(旧・カネカ服部商店)の社史で詳しく説明されている。ここに一部を紹介しよう。

 大正11年(1922)頃までは商家風の古いしきたりが残っており、小学校、高等小学校を出て奉公に上がった者は、丁稚として採用された。そして、上司からは「小僧」「子供」、あるいは丁稚名で呼ばれていた。丁稚名は、「岩吉」「良吉」「里吉」など「吉」を付けて名づけられた。入社すると、寮の台所に、
 新入店員  本名「誰某」  店名「誰某」
と掲示されたとのことである。そして20歳になると、従業員は「忠七」「音七」など「七」づけの名をもらい、いわゆる番頭扱いになった。一方、大学や商業学校出身者は丁稚ではないため、最初から本名で呼ばれた。

 服装については、大正初期、丁稚は縞の着物に角帯、荷造りの時は「服部商店」の名の入った法被を着て仕事をした。もっとも、服部商店は洋服の採用が早く、大正6年からは入社するとすぐに洋服屋が来て一人ひとりの寸法を採り、詰め襟スタイルの夏の白服2着、冬の黒服1着が支給された。洋服が企業の制服として採り入れられるようになるのは、おおむね大正10年代に入ってからのことである。服部商店の店員のこぎれいな詰め襟姿は、時代の先端をいくファッションであり、見る人を大いに珍しがらせたという。なお、背広着用が許されるのは、22歳以上かつ月給70円以上になってからであった。

第1條 会社ノ休日ハ左ノ如シ、但営業ノ都合ニ依リ之ヲ改廃シ又ハ臨時休業スルコトアルヘシ
自1月1日至1月3日 大祭祝日 日曜日
工場ニ勤務スル職員ノ休日ハ工務部長之ヲ定メ専務取締役ノ承認ヲ経ヘシ
第3條 職員中平素ノ成績良好ナル者ニ在リテハ決算年度1期間5日ヲ限リ特別休暇ヲ与フルコトアルヘシ
第4條 会社ノ執務時間左ノ如シ、但営業ノ都合ニ依リ之ヲ伸縮スルコトアルヘシ
自4月1日至9月30日……自午前8時至午後5時
自10月1日至3月31日……自午前8時30分至午後5時
第5條 終業時ト雖当日処理スヘキコトヲ終了セサル間ハ退勤スルコト得ス

(『興和百年史』)

 独身者は、全員寮での住み込みが原則であった。本店の場合は、宮町の通りを挟んで南側が事務所、北側に荷造場があり、そのさらに奥に寮があった。厳しい舎監がいて寮の規律に目を光らせていたが、血気盛んな青年が20人前後寝起きを共にするわけだから、そのにぎやかさは推して知るべしである。炊事は専属の男子雇員が腕を振るい、一人ひとり箱膳で出される食事は味つけも良く、好評だったという。

 当社は明治の創設以来久しく女人禁制で、大正10年、本店に電話交換手として女子社員が入社した時などは、「女人禁制カネカの庭に、誰が入れたか交換手」と言われたほど珍しがられた。

 慰安旅行も毎年行われていたが、中でも大正8年の琵琶湖巡りは特筆すべきであろう。全国の各店・各工場から集まった社員は、総勢300人。貸し切りの船で琵琶湖周遊を楽しんだ。

〔参考文献『興和百年史』〕

★ 佐吉のエピソード いつも油じみた和服を着ていた

 豊田佐吉は、洋服を好まず、いつも長めの和服で、帯は角帯に決めていた。また、ごく堅い足袋を好み、真夏の散歩にもきちんと足袋を履いて出かけた。工場へ行っても、和服で平気で機械の下へもぐり込んだりするから、着物はいつも油じみていた。

 佐吉は風呂が好きで、職工が何人も入った汚れた湯にさえ、喜んで飛び込んだ。発明の考案で心神が疲れると、ぶらりと外出して名もない山に登ったり、少年時代から好きな凧揚げに出かけたり、または有馬や修善寺など、山の温泉へ出かけたりした。そんな時いつも電報一つよこさないので、家人にとっては佐吉の行方が知れないのだった。

 食事について、家人に叱言を言ったことはなかった。また、召使に対しては、いかなる場合にも叱ったことはなかった。

 着物と下駄は、粗末なものを少しも厭わなかった。考案にふけるときはひじをつくので、着物などは穴が開いた。

 工場における佐吉は、職工と同様に働いた。決して大将顔をしなかった。

 ある時、佐吉が機械の下へもぐり込んで、じっと運転ぶりを凝視していると、一人の職工がやって来て、
 「おい、田中! 調子はどうだ?」
 と、佐吉の背中を叩きながら聞いた。

 「うーむ」
 と、佐吉は振りむきもしないでしきりに考え込んでいるので、職工は不審を抱いてよくよく見ると、それは佐吉だった。

 「わアーっ」
 職工はびっくりして、一目散に逃げ去った。

 佐吉の部下に対する教育はごく簡単だった。それは「断じて嘘を言わぬこと」だった。失敗は失敗、成功は成功、その間にいやしくも偽りがあってはならぬと戒めるに過ぎなかった。だから、佐吉は部下が仕事のうえで、どんな失敗をしても叱言を言ったことがない。

 佐吉の発明上の片腕といわれた鈴木利蔵は、のちに豊田関係会社の重役になった人だが、はじめはしばしば失敗した。

 ある時、鈴木がやり損じて恐る恐るおわびに行くと、佐吉は微笑して
 「そうか。間違えたか。だが、人間は神様ではない。間違えることも、粗相も、言い損じもあるものだ。ただ、何事も真実でなければならぬ。僕は今君がありのままに、失敗を失敗として話すのが非常にうれしい。それでなくては機械の発明や改良、または試験をする人には不向きだ。君も真の技術者の一人だなあ」
と言った。

 叱責を覚悟していた鈴木は、この意外な辞にすっかり感激して、以後ますます忠実に仕事をすることを忘れなかった。

 「正直であれ!」
 佐吉の部下の指導標語はこの一言に尽きた。

〔参考文献『豊田佐吉傳』〕

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発刊に寄せて

序文

大正元年(1912)

大正2年(1913)

大正3年(1914)

大正4年(1915)

大正5年(1916)

吉野作造が名古屋で民本主義を説く
その頃、日本は 好景気で狂乱物価
その頃、名古屋は 大戦のおかげで重工業が勃興
その頃、日本は 工場法が施行され不十分ながら労働者保護へ
<この年に誕生した会社>
ピンチを一致団結して乗り切る
クサカ
<この年に誕生した会社>
「もったない」精神をビジネスに エス・エヌ・テー
<この年に誕生した会社>
ロングセラーの「あべっ子ラムネ」 安部製菓
<この年に誕生した会社>
「土木は世の中を良くする仕事」の信念を貫く 朝日工業
<この年に誕生した会社>
自己変革に挑む地場の繊維産業
茶久染色
<この年に誕生した会社>
「長生き健康法」で企業を永続
妙香園

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大正7年(1918)

大正8年(1919)

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大正12年(1923)

大正13年(1924)

大正14年(1925)

大正15年(1926)

昭和2年(1927)