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<どえらい人物>地域振興と家業の発展にまい進 岡谷惣助清治郎

岡谷惣助清治郎
岡谷惣助清治郎
『名古屋商工会議所百年史』

 伊藤家と並ぶ名古屋商家の代表・岡谷家、その10代目惣助は明治20年(1887)、9代の3男として鉄砲町に生まれた。幼名清治郎、諱(いみな)を真愛、庵号を宗信といった。伊藤祐民(すけたみ)とはいとこの間柄だった。清治郎は、大正を迎える頃には実際の経営をすべて任されるまでになっていた。

 明治45年の機械部の発足には、10代惣助の強い発意があった。機械部は、豊田式織機(現・豊和工業)、大隈鐡工所、日本車輌製造など地元の鉄工関係の顧客をもち、共に発展した。名古屋市の上下水道敷設の普及の点でも地域社会に貢献した。

 清治郎は大正6年(1917)には、伊藤祐民の株式会社名古屋製陶所(現・鳴海製陶)社長就任に伴い同社の取締役に就いたほか、名古屋商業会議所(現・名古屋商工会議所)議員、株式会社愛知物産組取締役、名古屋商業会議所商業副部長に就任、さらに翌7年には株式会社大隈鐡工所取締役、福寿生命保険株式会社取締役、8年に名古屋商業会議所商業部長に就任している。

 関東大震災は、岡谷にとっても東京支店の焼失、東京鉄部の罹災など損害は大きかったが、全社一丸となっての迅速な対応、救済により、震災2カ月後の10月末には東京支店跡にバラック建ての土間式店舗を急造することができた。そこで再び営業を開始し、首都復興のために緊急を要していた建築用品や家庭用金物等の需要に応えた。その際、清治郎は暴利を厳に戒めるとともに、震災後暴騰したトタン板10トンを仮小屋に住む人々に寄付している。

 岡谷が関東大震災に際して義援のためにどれほどの金および物資を提供したかは定かではないが、昭和4年(1929)10月に「関東大震災救援費寄付により」10代惣助に紺綬褒章を授与されたことからもわかるとおり、相当なものであった。

 大正末期は、清治郎にとって、多忙を極めた。13年愛知県連合青年団副団長、14年大日本連合青年団理事、愛知時計電機社長に就き、名古屋財界および地域振興に努めるとともに、本来の岡谷家業の発展にもまい進した。

 15年、清治郎は家督を相続して10代惣助を襲名し、名実ともに岡谷グループの総帥になった。

 大正時代の名古屋財界の〝ご意見番〟的存在であった矢田績は、清治郎のことを「明日の成長が大きい」と賞賛した。

 昭和に入ると、清治郎の活躍には目を見張るものがある。昭和8年、惣助は名古屋商工会議所の会頭に選ばれた。伊藤祐民が自ら設けた「55歳定年制」実践による辞任を受けてのものであった。副会頭には豊田利三郎、青木鎌太郎が就いた。

 昭和7年には寛政6年(1794)以来増築に継ぐ増築で本宅ほか16棟の倉庫を有するまで拡大した名古屋本店を、竹中工務店の施工による近代的鉄骨4階建てビルに新築落成した。

 この本店ビル新築にも象徴されるように、ほとんど破局状態にあった日本経済の中にあって、岡谷商店(現・岡谷鋼機)は堅実経営により社業をよく発展させた。

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発刊に寄せて

序文

大正元年(1912)

大正2年(1913)

大正3年(1914)

大正4年(1915)

大正5年(1916)

大正6年(1917)

大正7年(1918)

大正8年(1919)

大正9年(1920)

大正10年(1921)

大正11年(1922)

大正12年(1923)

大正13年(1924)

大正14年(1925)

大正15年(1926)

大正天皇が崩御
その頃、名古屋は 佐吉が豊田自動織機製作所を設立
地域振興と家業の発展にまい進
岡谷惣助清治郎
<この年に誕生した会社>
地元資本が大同合併して誕生
東陽倉庫
<この年に誕生した会社>
時計商からアパレルへ。時流に沿う事業展開 リオグループ
<この年に誕生した会社>
「金の鳥を目指して翔ぶ銀の鳥」の思いを込めて 銀鳥産業
<この年に誕生した会社>
ガラス業界の再編を乗り越えて発展 宮吉硝子

昭和2年(1927)