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この年に誕生した会社

堅実な夫と節約家の妻で会社を盛りたてる 
深田電機

 沢田正二郎の「国定忠治」が大当たりして剣劇ブームが起きていた大正10年(1921)、名古屋で電気器具を販売する深田商店が創業した。これが電材商社・深田電機のルーツである。

 深田家は、元は溜まりや味噌の蔵だった。『角川日本姓氏歴史人物大辞典23愛知県』(角川書店)という本の中の「明治42年工場名・工場主一覧」の項に次のように出てくる。

 「工場名深田醸造所 工場主深田源六所在地東区赤塚町 創業年慶応二年 製品溜味噌」

 また、「愛知耐久會雑誌」の「當市醤油製成石数多額者」(明治23年中)に300石以上の業者10名が挙がっており、多い順に並べると「1、172石 深田源六、739石 森川市次、569石 鈴木善六、483石 奥田正香」となっていて、当時は源六が一番多かったようだ。

 この初代源六の息子が初次郎、鉄次郎、金次郎で、初次郎は醸造所を継いで2代源六となった。次男の鉄次郎の息子の鉦太郎が深田電機の創業者だ。鉦太郎は明治18年(1885)の生まれ。愛知県立第一中学校を経て、大阪高等工業学校(現・大阪大学)採鉱冶金科を卒業した。創業の地は、現在の本社所在地だ。

 創業時の深田商店は、電気アイロン、スタンド、自転車のランプ、懐中ランプなどを小売りした。鉦太郎は技術に秀でていて自分で電気自動車を造って走らせたこともある。

 創業間もない大正12年に、鉦太郎と志ようとの間に長男として生まれたのが耕一だ。耕一は秀才で、明倫中学校から名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)工業化学科に進学した。戦争中は兵役に行った。

 日本が敗戦に打ちひしがれていた昭和20年(1945)、深田家には不幸があった。耕一は運良く戻ってきたが、父鉦太郎が11月に亡くなった。

 残された耕一は、どうするべきか迷いに迷った。耕一には東邦瓦斯に入社する話もあったが、ついに家業を継ぐことにした。弱冠23歳での決断だった。

 耕一は昭和22年に資本金18万円で深田電機株式会社を設立し、社長に就任した。そして電気工事業者に資材を卸売りする電材商社になった。

 日本は昭和24年から25年にかけてドッジラインのおかげで不況の嵐が吹き荒れ、耕一は厳しい経営を強いられた。そこで起きたのが朝鮮動乱だった。日本経済が復活するとともに建築ラッシュが起き、深田電機も勢いづいた。

 昭和33年には、当時まだ珍しかった鉄筋コンクリート3階建ての本社を建築した。日本が高度成長の時代に入る中で、同社も一宮、高辻、中津川など営業所を相次いで開設し、波に乗ることができた。

 平成3年(1991)には47億円という売上高を達成した。だが、バブル崩壊とともに建築業が低迷期に入る。建築業を顧客にしている同社の業績も右肩下がりになった。耕一は採算を合わせるのに苦労するようになり、自分の役員報酬を大幅に減らして赤字転落を防いだこともあったという。

 会社発展の背景には、円満な夫婦関係があった。耕一は、会社設立とほぼ同時に美貴と結婚した。以来、夫婦二人三脚での商売が始まった。2人はタイプが全く異なっていた。耕一は堅実そのもので、和を尊んだ。一方、美貴は節約家で、一切の無駄を戒めて金庫番としての役割を果たした。耕一はワンマン社長だったが、美貴の意見だけは尊重した。何かあるとすぐ美貴に相談したという。その美貴も会社が大きくなると自ら身を引き、会社には出なくなった。

 2人の娘である理恵氏は「父がいたからこそ発展できた。母がいたからこそ潰れなかった」と回想する。

 そして世代交代の時がやってきた。平成17年には、耕一が会長になり、長女の理恵氏が社長になった。理恵社長は社員のやる気を最重視した。就任とともに導入したのは、成績優秀な者をリーダー(主任)に登用するというリーダー制度だ。

 平成20年にはリーマンショックに見舞われたが、理恵社長は動じなかった。平成22年には社員の幸福を考えた「3本の矢」という計画を発表した。これは「第1の矢=大手並みの賞与、第2の矢=国家公務員並みの給与、第3の矢=社員のライフステージに合わせた働き方」からなっている。

 耕一は、平成24年に亡くなった。会社の発展を見届けての最期だった。

 電機の世界は近年、省エネとか、太陽光とか、LEDとかの技術革新があったおかげで、市場が拡大した。同社も商機をつかんで成長を取り戻し、平成25年には売上高が50億円を突破。そして「第1の矢」だった大手並みの賞与(社員1人平均で年間166万円の賞与)を達成した。

 理恵社長の後継者は、長女の亜矢子氏と決まっている。4代目へのバトンタッチも着々と進んでいる。

 本社所在地は、名古屋市東区赤塚28である。

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発刊に寄せて

序文

大正元年(1912)

大正2年(1913)

大正3年(1914)

大正4年(1915)

大正5年(1916)

大正6年(1917)

大正7年(1918)

大正8年(1919)

大正9年(1920)

大正10年(1921)

チャップリンのサイレント映画
『キッド』が大ヒット
その頃、世界は ドイツでベルサイユ体制打倒を叫ぶ過激派が台頭
その頃、日本は 原首相、凶刃に倒れる
その頃、名古屋は 不況で繊維企業の淘汰が進む
その頃、名古屋は 上遠野富之助が名古屋商業会議所の会頭に就任
その頃、豊田は 上海工場を法人化して株式会社豊田紡織廠とする
<この年に誕生した会社>
軍靴の靴底金具から靴のトップブランドに発展 マドラス
<この年に誕生した会社>
堅実な夫と節約家の妻で会社を盛りたてる 深田電機
<この年に誕生した会社>
ガラス製のコースターのメーカーとして始まった タケダ
<この年に誕生した会社>
木材の防腐技術を生かして発展
大日本木材防腐

大正11年(1922)

大正12年(1923)

大正13年(1924)

大正14年(1925)

大正15年(1926)

昭和2年(1927)