村松彦七が計画を推進し、土着派が出資する形で設立した名古屋紡績は、その後順調に発展した。明治21年(1888)には、第二工場を建設するとともに、資本金を当初の3万4千700円から12万円へと大幅に増資した。
この成功ぶりを見ていた他の商人たちも、遅れてはならじとばかりにライバル会社を興すことになった。その名も「尾張紡績」だ。社名の違いは「名古屋」と「尾張」という文字だけであり、ライバル心むき出しの新会社設立だった。
尾張紡績の設立の主唱者は、奥田正香だった。その設立計画には、近藤友右衛門、八木平兵衛、滝兵右衛門、瀧定助、森本善七らが参画した。奥田が紡績会社の設立を思い立ったのは、紙幣整理が完了して企業勃興期に入った明治19年だといわれる。しかし、奥田には紡績の知識がなかったために、繊維業界で急成長していた信友の近藤友右衛門に相談を持ちかけた。
近藤友右衛門は、美濃国高須藩の農家の出身で、開港後、横浜に直接洋糸・洋反物を買い付け、尾張を中心に販売することによって急成長をした綿糸商だった。店は伝馬町7丁目(現・中区錦2‐6。八木兵本店の近く)にあった。
尾張紡績は、明治20年に、愛知郡熱田町大字尾頭橋で設立された。資本金は何と36万円だったというから凄い。巨額の投資により、先発の名古屋紡績を一気に抜こうという魂胆だった。
名古屋紡績の設立の主唱者は奥田正香だったが、名古屋財界は一般に土着派、近在派、外様派の3グループに分類されているが、外様派グループの中核的存在が正香であった。それに近在派と呼ばれた繊維商人たちも加わった。ということで、名古屋の紡績業界は、こんな〝戦争〟状態に陥った。
名古屋紡績(土着派の牙城。伊藤次郎左衛門、岡谷惣助、祖父江重兵衛ら)
対
尾張紡績(外様派と近在派の共同戦線。奥田正香、近藤友右衛門、八木平兵衛、滝兵右衛門、瀧定助、森本善七ら)〔参考文献『新修名古屋市史』〕
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