第1部 明治前期/1889(明治22年)

大日本帝国憲法発布。
名古屋市が誕生。名古屋電燈が設立

大日本帝国憲法発布

 この明治22年(1889)は、大日本帝国憲法が発布された記念すべき年になった。国民は憲法の内容が発表される前から憲法発布に沸き立ち、至る所に奉祝門やイルミネーションが飾られ、提灯行列を催した。

 名古屋では、新愛知・金城新報・扶桑新聞による憲法発布祝賀会が大須で開催され、街中が祝賀ムードだった。

その時名古屋は―「名古屋市」が誕生

 この年は最初の頃、会社の設立と株取引が隆盛となり好況だった。資金需要が増大し、銀行の貸付額が急増した。

 しかし、9月11日に愛知県は大暴風に見舞われ、川の氾濫により890人が死ぬという大惨事になった。この水害により、米価が暴騰した。そのため人々は生活防衛に走るようになり、名古屋は10月以降、不況に陥った。

 そうした中で、10月1日に「名古屋市」が誕生した。

 市制町村制は明治22年(1889)に施行され、全国で39の市が生まれた。発足当初の名古屋市は、人口が15万7千人で、世帯数が4万8千戸だった。

 10月から11月にかけて3回にわたり、最初の名古屋市会議員選挙が実施された。11月15日には、堀部勝四郎(名古屋商工会議所第四代会頭、生鯖商)を初代議長に選んで市会が開かれ、市長候補者3人を選挙し、最高点であった中村修が初代名古屋市長に就任した。

 翌年の明治23年には市役所開庁式が行われた。最初の市役所は、現在の栄交差点西南角(現・スカイル)にあった。この頃の市役所は、総檜造りだった。名古屋城御殿、大曽根の徳川邸と並び称せられるほど豪華だった。〔参考文献『愛知県20世紀の記録 明治・大正編』(愛知県教科書特約供給所)〕

その時『坂の上の雲』は――子規が喀血

 子規はこの頃、喀血した。肺結核で、不治の病とされていた。それも契機となり「子規」という号を用いるようになった。療養のため、帰郷することになった。

その時佐吉は――父から怒られて連れ戻される

佐吉は、そのうち借金魔と言われるようになり、故郷にいづらくなった。「今にみておれ」の気持ちだった。ある日、ひそかに母親を訪ねて最後の泣きを入れてお金を借りると、故郷を出奔した。

 行き先は横須賀だった。明治19年(1886)の時に横須賀の造船所で見た機械の魅力が頭にこびりついていた。横須賀にいる同郷の者の家に転がり込んで、横須賀でハタゴの発明をしようとした。

 だが、この突然の出奔は当然のことだが、父の怒りを買った。それは寒い夜だった。豆ランプを前に、宵の口から絵図面の作成に夢中だった佐吉は、突然父の怒りを帯びた声を頭上に聴いてハッとした。夢かと思ったが、紛れもない父である。その父の顔は、おそらく心労のせいであろう、見違えるほどやつれていた。その声も、あの頑固な近づきがたいほど厳格だった父とは思えないほど、弱々しい響きを持っていた。威嚇するように、哀願するように、故郷に帰れと説く父に、佐吉は言葉に詰まった。

 佐吉は泣いた。泣きながら、父の命令を拒んだ。父は是が非でも連れて戻るといきり立った。それをみかねた同郷の者が間に入って、とにかく織機の考案が完成するまで預かるということで、話がついた。

 父の帰国命令を拒んだ佐吉は、それ以降物に憑かれたように研究に没頭した。この横須賀滞在は半年に及んだ。その後、故郷に戻ったが、大工ではなく、農業に就いた。だが、鍬で耕しながらも、考え事をする佐吉には、農業は合わなかった。

名古屋電燈を設立

 文明開化の象徴・電灯が明治22年(1889)に名古屋でともった。

 東京では明治19年に日本初の電力会社・東京電燈が営業を開始した。それよりも遅れたが、名古屋電燈という株式会社が明治19年に設立され、明治22年から営業を開始した。
その名古屋電燈のゆかりの地が、名古屋市中区の電気文化会館のある場所だ。そこは名古屋電燈の発祥の地で、発電所が置かれた。

 名古屋電燈は、主に旧尾張藩士が中心になって設立した。元藩士の多くは、秩禄処分によって下付された金緑公債も食い潰して、生活の根拠を失っていた。政府は産業資金を貸し下げて適当な産業に従事させる策に出たが、それには規定の抵当物を差しださねばならず、適当な産業の無かったことと相まって、不満を高めるだけであった。

 電灯という事業にしても、当初は誰も耳を傾ける者は無かった。だが、熱心に計画を進めた者がいたおかげで、ようやく計画がまとまり、設立に至った。

 営業開始の初日は、当時の名古屋市人口15万7千人、戸数4万8千戸に対して、点灯数は、僅かに400余個だった。当初は、日没から3時間のみの送電だった。大須の遊郭が主な顧客だった。 

 発足後まもない明治24年、濃尾地震で会社も建物に被害があったが、機器・発電機には被害がなかった。昼夜兼行の修理で2カ月後に送電点灯を開始した。

 後に愛知電燈というライバル会社が設立されることになるが、両社は明治29年に合併し、現在の中部電力の前身になっていく。〔参考文献『愛知県20世紀の記録 明治・大正編』(愛知県教科書特約供給所)〕

その時、名古屋商人は

ページの先頭へ戻るページの先頭へ

序文

第1部 明治前期

明治元年 龍馬暗殺
その時、名古屋商人は・・・
明治名古屋を彩る どえりゃー商人 伊藤祐昌(いとう呉服店)
この年に創業 峰澤鋼機
明治2年 版籍奉還
明治3年 四民平等
その時、名古屋商人は・・・
明治名古屋を彩る どえりゃー商人 九代目岡谷惣助真倖(岡谷鋼機)
明治4年 通貨単位が両から円へ
その時、名古屋商人は・・・
岡谷鋼機が会社を作って七宝焼を世界に売り込む
明治5年 新橋―横浜間に鉄道開通
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 北川組
この年に創業 鯛めし楼
明治6年 地租改正
明治7年 秋山好古が風呂焚きに
明治8年 北海道に屯田兵を置く
その時、名古屋商人は・・・
明治名古屋を彩る どえりゃー商人 四代目滝兵右衛門(タキヒヨー)
この年に創業 タナカふとんサービス
この年に創業 青雲クラウン
明治9年 武士が失業へ
明治10年 西南戦争起こる
その時、名古屋商人は・・・
本町のシンボル・長谷川時計を作る
この年に創業 一柳葬具總本店
明治11年 大久保利通暗殺
明治12年 コレラが大流行
明治13年 官営工場が民間へ払下げ
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 安藤七宝店
明治14年 緊縮財政始まる
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 岩間造園
この年に創業 松本義肢製作所
この年に創業 東郷製作所
明治15年 板垣退助暴漢に襲われる
明治16年 欧化を推進、鹿鳴館外交始まる
明治17年 自由民権活動が激化
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 村上化学
明治18年 伊藤博文、初代首相に
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 福谷
この年に創業 服部工業
明治19年 ノルマントン号事件起きる
明治20年 豊田佐吉、発明家として歩み出す
その時、名古屋商人は・・・
明治名古屋を彩る どえりゃー商人 林市兵衛
この年に創業 折兼
この年に創業 鶴弥
この年に創業 柴山コンサルタント
明治21年 正岡子規、ベースボールに夢中
その時、名古屋商人は・・・
明治名古屋を彩る どえりゃー商人 鈴木政吉
この年に創業 ニイミ産業
この年に創業 丸川製菓
明治22年 大日本帝国憲法発布
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 坂角総本舗
明治23年 教育勅語発布
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 ヒノキブン
この年に創業 笹徳印刷
この年に創業 ワシノ機械
明治24年 ロシア皇太子、斬られる
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 河田フェザー
明治25年 第二回総選挙で、政府が選挙妨害
明治26年 御木本幸吉、真珠養殖に成功
その時、名古屋商人は・・・
明治名古屋を彩る どえりゃー商人 奥田正香
この年に創業 西脇蒲團店

第2部 日清・日露戦争時代

第3部 明治後期

第4部 「旧町名」を語りながら