名古屋商工会議所の前身である名古屋商法会議所は、明治14年(1881)に設立された。
明治政府は、富国強兵、殖産興業、文明開化を国策の中心に掲げ、特に外国貿易振興のための商工業者の機関を必要としていた。
そこで東京では、明治11年に東京商法会議所が設立され、初代会頭に渋沢栄一が就任した。
大阪では、明治11年に大阪商法会議所が設立され、初代会頭には、五代友厚が就任した。
この動きは、名古屋にもすぐ伝わった。名古屋商法会議所は、明治14年2月、43人の同志によって、設立の議が決せられた。初代会頭に伊藤次郎左衛門(祐昌)が就任し、全国で16番目の会議所として3月28日に設立した。
「名古屋商法会議所創設願書」には、次のような言葉が載っている。
私共儀
当地商法ノ広益ヲ量リ人情ヲ酌ミ之ヲ実施スルノ方法ヲ議シ物品取引上ノ弊習ヲ改良民心安堵ノ根基ヲ定メ度ニ付名古屋商法会議所開設仕度別紙創設主意書及規則並議事規則相添此段奉願候也
明治十四年二月二八日
名古屋商法会議所創立発起人総代
名古屋区鉄砲町
平民 岡谷 惣助
同
名古屋区茶屋町
平民 伊藤 次郎左衞門
会議所は設立当初、場所は〝桑名町の加藤庄兵衛という味噌屋〟の一部を間借りしていた。「商業会議所の事務所は桑名町の加藤庄兵衛と云ふ味噌屋の座敷を借り、表に商業会議所の看板を掲げてあったと云う有様…」。これは明治26年、当時名古屋商業会議所の書記長だった上遠野富之助(第八代会頭)が書き留めたものだ。
桑名町は、南北の通である。本町から西に向かって長者町、長島町、桑名町、伏見町となっている。また、東西に走る筋として菅原町(現・桜通)があるが、その菅原町より北側の部分が桑名町である。つまり「桜通桑名町の交差点を少し北に行った近辺」にあったようだ。
なお、会議所の組織は、明治14年の設立以降、時代の変遷とともに改革が繰り返され、昭和28年の新商工会議所法の施行により現在の組織が確立した。
名古屋商工会議所(明治18年2月-明治23年11月)
名古屋商業会議所(明治23年12月-昭和3年5月)
名古屋商工会議所(昭和3年5月-昭和18年8月)
愛知県商工経済会(昭和18年8月-昭和21年9月)
社団法人名古屋商工会議所(昭和21年9月-昭和28年12月)
特別認可法人名古屋商工会議所(昭和28年12月- )
明治時代の会頭は次の通りだった。
初代=伊藤次郎左衛門祐昌(14年3月-18年2月 いとう呉服店)
同時期に、岡谷惣助が副会頭を務めている。伊藤家と岡谷家は幾重にもわたる縁戚関係であり、行動を共にすることが多かった。
第二代=山本新治郎(明治18年2月-21年3月 酒問屋商)
第二代会頭の山本新治郎は、「京口屋」という屋号だった碁盤割商家で、山本九八郎家といった。酒問屋だった。場所は伝馬町5丁目で、現在の中区錦2‐2(名古屋センタービルの場所)である。
また、同時期に、井上茂兵衛が副会頭を務めている。
第三代=鈴木善六(明治21年3月-24年7月 味噌溜製造業)
第三代の鈴木善六は、車町で、味噌溜製造業を「大津屋」の屋号で営んでいた。車町とは、通称「魚之棚」と呼ばれていた小田原町(料亭河文のある所)と同じ筋である。つまり現「魚ノ棚」交差点の近辺である。
また、同時期に片野東四郎が副会頭を務めている。
第四代=堀部勝四郎(明治24年7月-24年11月 生鯖商)
堀部勝四郎は、堀川沿いで、西側に位置していた船入町(現・中村区名駅5丁目)で、生鯖商を営んでいた。
また、同時期に鈴木善六が副会頭を務めている。
第五代=鈴木善六(明治24年11月-26年7月)
鈴木善六は再任された。また、同時期に鈴木摠兵衛が副会頭を務めている。鈴木摠兵衛は尾張藩御用達の材摠木材の当主で、大正時代には名古屋財界を牛耳るドンになる。
第六代=奥田正香(明治26年7月-大正2年10月 味噌溜製造業等)
この奥田正香については、キーパーソンであるので「明治名古屋を彩る どえりゃー商人」という欄で詳述する。
この奥田正香時代は長く続いたが、その補佐役として明治42年から大正10年まで副会頭を務めたのが上遠野富之助だ。
上遠野は、秋田県出身で新聞記者だったが、奥田正香の知遇を得て名古屋に赴いた。
以後奥田を補佐し、明治銀行、日本車輛製造、名古屋電力(東邦電力)、名古屋瓦斯(東邦瓦斯)など同地の有力企業の設立に参画し、役員を兼任した。
そして第八代の会頭(大正10年1月-昭和2年11月)にもなっている。〔参考「名古屋商工会議所」のウェブサイト、写真は『名古屋商工会議所百年史』より〕
伊藤次郎左衛門家は、明治14年(1881)に伊藤銀行を設立した。名古屋で初の普通銀行だった。
伊藤家は、明治維新前から尾張藩の御用達として藩財政に関わり、維新後も伊藤為替方として三井銀行、第八国立銀行、第十一国立銀行と共に公金を取り扱っており、国立銀行に替わり私立銀行が設立されることが可能になるに至って、設立に及んだ。
伊藤次郎左衛門祐昌は、すでに第十一国立銀行の頭取に就任していた。それにもかかわらず別に私立銀行を設立したのは理由があった。
その理由とは、旧尾張藩の旧債整理問題だった。尾張藩は、財政に窮するようになって藩札を大量に発行したが、兌換準備金のない、いわば〝紙切れ〟同然の紙幣だった。その紙幣には、伊藤家などの豪商が裏書きを強要されていた。だから尾張藩消滅後も、人々は裏書きしていた豪商に償還を要求した。
困り果てた伊藤家は、旧藩債を背負い込み、その弁済を伊藤銀行の株式を交付することによって処理することにした。もちろん、伊藤銀行の設立は、伊藤家の資産保全と運用を目的にしていたが、同時に旧尾張藩の旧債整理問題を一挙に解決しようという狙いだった。
伊藤銀行は、伊藤家のある茶屋町に置かれた。
伊藤銀行は、昭和16年(1941)に名古屋銀行と愛知銀行と統合して、東海銀行になっていく。〔参考文献『新修名古屋市史』〕
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