第1部 幕末の部/その4、吉田松陰 松下村塾を開塾

その時、名古屋商人は

安政3年になると商人達も悲鳴

 慶勝は安政3年(1856)7月、有力商人を城内に招き、財政の窮乏を訴えた。その時に公示した藩の負債高は177万両、米1000石に達し、そのうちの30万両は大坂商人が融通したものだったという。慶勝が襲封した年の歳入金が24万両だったことを考えると、まさに破産状態だった。

 このようなことばかりでは、商人から悲鳴が上がるのも当然である。尾張藩はこの年、5カ年で60万両の調達金を集めようという計画を打ち出したが、思う通りに集まらず、その募集期間を10カ年に変更した。安政4年には、調達金の増募を命じられた町奉行が「もはやいかなる理由をもっても徴収しがたい」と申し立て、退役を願い出たこともあった。

御勝手方勘定所請取書御勝手方勘定所請取書(名古屋市博物館蔵)
安政4年から文久3年にかけて、尾張藩の
御勝手方勘定所に納めた仕送り金の受取書。
三家衆である関戸、伊藤、内田の名前が見える

 商人達は、この調達金の拠出に苦しんだ。慶勝の就任当初はなんとか協力しようとしていた者達も不景気のさなかだけに、もはや拠出したがらなかった。御用達商人は、さまざまな特権があったが、自ら御用達商人の座を退こうという向きも出始めた。安政5年の記録には〈わたくしは、嘉永2年(1849)町奉行所御用達を下命され、おかげで、今日までつとめてきた。けれども、昨年盆後、内輪において損失があり、商売もしだいにゆきつまった。なんとしてでも家業の再建をはかるべく、御用達を退役したい〉という願書まで藩に出されるようになった。[参考文献『名古屋商人史』(林董一 中部経済新聞社)]

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第1部 幕末の部

その1、龍馬暗殺
その時、名古屋商人は・・・
明治維新を迎えた時の名古屋の富商の顔ぶれ
生き残った商人はどこか?
生き残りの秘訣は土地への投資?
名古屋商人に学ぶ“生き残りのための5カ条”
その2、ペリー来航
その時、名古屋商人は・・・
いとう呉服店十三代当主祐良が写経に励みながら幕末を乗り切る
「笹谷」という屋号だった岡谷鋼機
この頃創業した会社・「頭痛にノーシン」株式会社アラクス
この頃創業した会社・中外国島
名古屋の渋沢栄一と呼ばれる奥田正香が誕生
その3、安政の大獄
その時、名古屋商人は・・・
安政の大地震で被災した、いとう呉服店上野店
この頃創業した会社・藤桂京伊株式会社
この頃創業した会社・労働安全衛生保護具のシマツ
その4、吉田松陰 松下村塾を開塾
その時、名古屋商人は・・・
安政3年になると商人達も悲鳴
その5、篤姫、将軍家定に嫁ぐ
その時、名古屋商人は・・・
この頃創業した会社・秋田屋
その6、安政の大獄から桜田門外の変へ
その7、龍馬脱藩へ
その時、名古屋商人は・・・
この頃創業した会社・繊維の信友
この頃創業した会社・師定
この頃創業した会社・角文
その8、新撰組、池田屋事件
その時、名古屋商人は・・・
この頃創業した会社・タキヒヨーから独立した瀧定
その9、高杉晋作決起
その10、薩長同盟成立
その時、名古屋商人は・・・
十四代目当主祐昌の時代に入ったいとう呉服店
岡谷鋼機が職務分掌「亀鑑」制定
その11、大政奉還の大号令
その時、名古屋商人は・・・
岡谷鋼機「妻子を失い失意のどん底になった兄」に代わって頑張った九代目当主
豊田佐吉、誕生する
その12、江戸城無血開城
その時、名古屋商人は・・・
明治維新を迎えても続いた商人の苦悩

第2部 江戸時代初期の部

第3部 江戸時代中期の部

第4部 江戸時代後期の部

第5部 特別インタビュー