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第1部 幕末の部/その3、安政の大獄

その時、名古屋商人は

安政の大地震で被災した、いとう呉服店上野店

 安政2年(1855)10月2日の夜に起きた大地震によって火災が発生し、いとう呉服店上野店は全焼してしまった。

安政の大地震 仮営業の引札 安政の大地震 仮営業の引札『松坂屋50年史』より。
安政3年9月、再建に奔走していた時期に配られた引札。
9月28日からの3日間は尾州本家から到着する品物を景品
つきで廉売するとある

 名古屋で知らせを受けた当主の伊藤祐良は、ただちに訓諭書を出して上野店の店員を励ました。訓諭書で祐良は、質素倹約を第一に、犠牲的精神を持って本・支店が一体となって、気長く再建に努めなければならないと説いた。上野店は早くも同年の12月1日、仮店舗で営業を再開した。物資が欠乏していたため、開店当日から大賑わいだった。

 上野店の再建は、まさに当主から店員まで一丸となって取り組んだ。店を再建するための木材は、全部名古屋で切り組みして、海路で江戸に運んだ。出入り大工であった竹中組は江戸で組み立てを行い、あっという間に再建した。ちなみに竹中組は、織田信長に仕えていた大工といわれている。明治以後も松坂屋の建築はほとんど竹中工務店が請け負っている。

 安政3年9月には店、台所、蔵などが完成した。落成記念の大売り出しの引札(商品の宣伝や開店の披露などを書いて配る広告の札)を5万5000枚配布するという、当時としては大がかりな宣伝を行った。この開店売り出しは、江戸中で大きな話題となり、期間中大勢の客が詰めかけた。商い高も、3日間で合計3050両に達した。上野店は、天保7年(1836)、安政元年、万延元年(1860)と、相次いで隣接地を買収して発展した。[参考文献『名古屋商人史』林董一(中部経済新聞社)・『揚輝荘と祐民 よみがえる松坂屋創業者の理想郷』(揚輝荘の会 風媒社)]

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第1部 幕末の部

その1、龍馬暗殺
その時、名古屋商人は・・・
明治維新を迎えた時の名古屋の富商の顔ぶれ
生き残った商人はどこか?
生き残りの秘訣は土地への投資?
名古屋商人に学ぶ“生き残りのための5カ条”
その2、ペリー来航
その時、名古屋商人は・・・
いとう呉服店十三代当主祐良が写経に励みながら幕末を乗り切る
「笹谷」という屋号だった岡谷鋼機
この頃創業した会社・「頭痛にノーシン」株式会社アラクス
この頃創業した会社・中外国島
名古屋の渋沢栄一と呼ばれる奥田正香が誕生
その3、安政の大獄
その時、名古屋商人は・・・
安政の大地震で被災した、いとう呉服店上野店
この頃創業した会社・藤桂京伊株式会社
この頃創業した会社・労働安全衛生保護具のシマツ
その4、吉田松陰 松下村塾を開塾
その時、名古屋商人は・・・
安政3年になると商人達も悲鳴
その5、篤姫、将軍家定に嫁ぐ
その時、名古屋商人は・・・
この頃創業した会社・秋田屋
その6、安政の大獄から桜田門外の変へ
その7、龍馬脱藩へ
その時、名古屋商人は・・・
この頃創業した会社・繊維の信友
この頃創業した会社・師定
この頃創業した会社・角文
その8、新撰組、池田屋事件
その時、名古屋商人は・・・
この頃創業した会社・タキヒヨーから独立した瀧定
その9、高杉晋作決起
その10、薩長同盟成立
その時、名古屋商人は・・・
十四代目当主祐昌の時代に入ったいとう呉服店
岡谷鋼機が職務分掌「亀鑑」制定
その11、大政奉還の大号令
その時、名古屋商人は・・・
岡谷鋼機「妻子を失い失意のどん底になった兄」に代わって頑張った九代目当主
豊田佐吉、誕生する
その12、江戸城無血開城
その時、名古屋商人は・・・
明治維新を迎えても続いた商人の苦悩

第2部 江戸時代初期の部

第3部 江戸時代中期の部

第4部 江戸時代後期の部

第5部 特別インタビュー