名古屋の八事霊園。そこを訪ねると、工業薬品卸・岩田商会の創業者岩田弥七の石像がある。その石像は、子の二代目弥七が建てたもので「嘉永四年に羽島郡で誕生。青雲の志を抱いて、商いの道を志して大を為す」と功績を讃えられている。
嘉永4年(1851)といえば、ペリーの来航の2年前である。初代弥七は、幕末の動乱の真っ最中に生を受けたわけだ。濃尾地方は綿の産地だったが、安政5年(1858)の開国以来、インド製の安価な綿が大量に入ってきて壊滅的な打撃を受けた。初代弥七は、郷土の荒廃を目のあたりにしながら成人したことだろう。
そして、明治維新を17歳にして迎えることとなる。従来からの価値観がすべて否定されるような激動の時代だった。だが、職業選択が自由になったのだから、能力のある者にとってはチャンスの到来でもあった。
社史『岩田商会100年史』によれば、初代弥七は明治24年(1891)の濃尾大地震後に名古屋に移って、明治35年に「岩田弥七商店」を開いたことになっている。扱い品目は、織物の染色に使う草木灰だったとか(後にソーダ灰や苛性ソーダに転じた)。
だが、明治35年ではすでに51歳になっているので、青雲の志を抱くにはいささか年齢が上過ぎる。「濃尾大地震後に」という記述にこだわれば、創業は明治20年代まで遡るのではないだろうか? と想像できなくもない。濃尾地方の繊維産業が技術革新により勃興するのは明治20年代だから、その方が時代背景とも合う。
初代弥七のことは、残念ながら詳しいことはわからない。二代目が石像まで建てたのだから、相当なところまで成功したのだろう。そして明治44年に逝去した。
二代目の弥七は、明治12年に長男として生まれた。先代が基礎を築いた後を受けて、大正2年(1913)に二代目弥七を襲名した。大正末から昭和初期にかけて、人絹工業が新興の化学工業として成長した。人絹の製造には、苛性ソーダが不可欠で、二代目はそれを扱うことで事業を伸ばした。
だが、日本は戦争に突入して、岩田弥七商店はまともに操業できなくなってしまった。二代目弥七には、11人の子がいた。その中で男子は戦争に取られてしまった。運が良かったことは、その3人とも無事に帰ってきたことだ。しかも、創業の地である花車町(現・中村区名駅5丁目)の家屋は空襲で焼け残った。
男子3人の名は、長男俊二、次男邦三、三男和夫(正確には長男が夭折していたので、俊二は次男)であった。岩田家は、家屋もそのまま残り、二代目弥七の下に男子3人が揃うという幸運な中で再スタートを切ることができた。
3人の兄弟は、長男俊二が名古屋を守る、次男邦三は東京に進出する、三男和夫は大阪を攻める、という感じで役割を分けた。この3兄弟は、個性が違っていたが、それでいて仲が良かったようで、毎年夏になると蓼科で一族が集まって懇親を深めた。社長職も、順番にバトンを渡すかのように交代していった。
もちろん、途中では大口の得意先が倒産するなど、ピンチを味わったこともある。だが、その際は一族が市街地で所有していた土地を処分した。兄弟の間には「会社あっての岩田家」という意識があり、一致団結して乗り切った。
岩田商会は、兄弟経営が長かっただけに、ワンマン経営という体質ではない。下から良い提案があると、上は「まあ、やってみろ」と認める風土がある。
それを象徴するのは、製造部門への進出だ。昭和40年(1965)には、オート化学工業株式会社を設立し、建築で使用するシーリング材・接着剤などを造り始めた。このシーリング材では独自の技術があり、現在ではトップシェアを誇っている。商社でありながら、自社製品をもつという強みが生かされるようになった。
平成6年(1994)には、俊二の長男である忠士が社長に就任したが、55歳の若さなのにガンで亡くなるというアクシデントに見舞われた。忠士は事業部制を推進した。そのおかげで、今では、オートン事業部、建材事業部、先端材料事業部、樹脂事業部、化学品事業部という5つの事業部を擁するまでになっている。
忠士の後は、和夫の長男である彰夫氏が平成13年に社長に就任した。俊二の長男忠士の長男である卓也氏が専務として補佐している。
年商290億円で、4割が工業用薬品、4割が建築業界向けシーリング材・床材等、2割がその他になっている。
本社は、名古屋市中区錦1‐2‐11。
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