日本とロシアの国力は、懸絶していた。
ロシアの総動員兵力は200万人で、日本の100万人の倍だった。戦艦の数は、日本が6隻だったのに対して、ロシアは12隻あった。財政支出額に至っては比較にならなかった。
このロシアに対する恐怖心もあって、日本国民はみな躍起になった。横須賀の海軍造船廠では、明治36年(1903)夏から労働が異様なぐらいに強化された。造船工は家に帰ることすら許されず、それぞれの家庭から弁当を運ばせた。まさに昼夜兼行での働きだった。
日本がロシア側に対して、満州はロシアが、朝鮮は日本が取るという内容の協商案を出し、妥協点を見出したのは明治36年8月だったが、ロシア側はわざと回答を遅らせてきた。シベリア鉄道の建設に至れば兵力を増強できるので、引き延ばした方が得策だという判断だった。
ロシア側からの回答がようやく来たのは、明治36年末だった。だが、その内容ときたら、朝鮮の北緯39度以北を中立地帯とし、いわば朝鮮の北半分は欲しいというものだった。この要求は日本を震え上がらせた。
ロシア皇帝ニコライは、明治36年、ドイツ皇帝の使者に対して、日本との戦争はありえないと語った。その理由は「朕が戦争を欲しないからだ」とした。ニコライにしてみれば、日本ごときは恫喝するだけで十分だということだった。
ロシアはシベリア鉄道の工事を急いでいて、明治36年末で完了した。このおかげで大軍を極東に派兵できるようになった。
こんな状況下で、日本は大晦日を迎えた。この日は、行く年来る年の感傷にふける暇もなく、陸軍省や海軍省の窓の灯は遂に消えることがなかった。つまり軍部は開戦準備に入った。〔参考文献『NHKスペシャル坂の上の雲』(NHK出版)、『日露戦争史1』(半藤一利 平凡社)〕
明治36年(1903)、兜町の渋沢栄一の事務所に白い詰め襟服の面会人が現れた。その人物の名は、児玉源太郎だった。
児玉源太郎は、日露戦争で降格の参謀本部次長に志願。また新たに編成された満州軍総参謀長も務め、日本の勝利に貢献した。
受付は、児玉源太郎と聞いて、にわかに信じなかった。そんな人物が約束もせずにいきなり1人でやって来るのは考えられないからだ。
そこを通りがかったのは、渋沢栄一だった。渋沢は「あなたでしたか」と挨拶をした。渋沢は、児玉の来訪の目的はわかっていた。
渋沢は、対露に関しては、非戦論者だった。財政的な観点から、困難であると考えていた。渋沢は相手を追い返すこともできず、面談に応じた。渋沢は「児玉さん、何度も申し上げている通り、日本にはロシアを相手に戦争できるような金はありませんよ」と従来からの自説を繰り返した。
児玉は諦めなかった。渋沢に次ぐ財界の大物である近藤廉平にも会った。そこで、ぜひ満州や朝鮮を旅行してロシアがそこにどれほど大規模な軍事進出をしているのか実地に見て欲しいと頼んだ。
近藤廉平は、渋沢と同じ非戦論者だった。初めは気乗り薄だったが、児玉の執拗さにおされて腰を上げた。その近藤廉平は、満州朝鮮旅行から帰国して意見が一変してしまった。直ちに渋沢に会い、ロシア軍の兵力の強大さを報告した。それを聞いた渋沢は、日本が滅ぶかもしれないと初めて危機感を覚え、以後、戦費調達に奔走することになる。〔参考文献『NHKスペシャル坂の上の雲』(NHK出版)〕
この年名古屋商人は、どん底の景気に耐えていた。名古屋の経済は、明治36年(1903)上半期までは景気が低迷した。36年8月になると、景気はようやく上向いたものの、日露関係の険悪化や、米の減収などにより、株価が下落して不安定な展開になった。
国内では「東京歌舞伎座に対露同志会大会開かれ、政府の軟弱外交を責め、討露の声高し」などという勇ましい動きが出ていたが、実際のところは、ロシアに対する恐怖心に満ちていた。その恐怖心が経済活動を不活発にした。
ロシアへの恐怖心が象徴的に現れたのが株価だった。名古屋株式取引所の市況は、この36年を通じて、どん底だった。
株式市況は、大阪の第5回内国勧業博覧会開催等から一時市況は立ち直りを示したが、年末近くになって日露間の風雲急を告げたことから、市況は大暴落となった。この間における名古屋株式取引所の売買高は、明治29年の952千株から逐年減少し、明治36年には73千株(最低記録)と減少した。〔参考文献『名古屋証券取引所三十年史』、『新修名古屋市史』〕
読者諸兄は、大須に遊郭があったのをご存じだろうか? それも全国で指折りの規模だった。
遊郭の場所は、大須観音の北西側だ。当時の町名では、花園町、吾妻町、若松町などといった。現住所では中区大須2丁目から1丁目にかけた一帯で、その多くは国道19号線の下になっている。
遊郭の名は「旭郭」といった。当時は遊郭のことを「席貸茶屋」といった。旭郭は、明治9年(1876)に公認された。あたり一帯に多数の席貸茶屋が並んで、最盛期には妓楼173軒、芸妓112人、娼妓1618人に達した。
特に金波楼の金吾は天下の3名妓と讃えられた。金吾は、西川流の名取で、気品があった。それでいて見識ばらないところが好かれた。西園寺公望の寵愛を受けたが、最終的には金波楼の若主人の内儀におさまった。
遊女のことを、当時は「娼妓」と呼んでいた。「狐」という異称で呼ぶこともあった。遊郭で遊ぶのは、庶民の男にとってはやはり高嶺の花であるのも事実だった。遊びにいけない男が詠んだ川柳も多く残っている。
「金銀がなくて将棋はさせぬ也」(「将棋」とは娼妓の洒落)
この旭郭で、痛ましい事件が起きたのは明治36年だった。7月9日午後16時半、若松町の7階建ての枕水楼から出火した。火はたちまち燃え広がった。結局、死者17人、全焼16戸、半焼14戸という大惨事になった。
同じ大須では、萬松寺の横に菊細工の黄花園があり人気だった。
名古屋での遊郭は、明治6年に日之出町(現・中村区)で作られた。それが明治8年に大須に移転拡張され、10年に完成した。その旭郭も、大正13年(1924)に中村大門に移転した。〔参考文献『愛知県20世紀の記録 明治・大正』(愛知県教科書特約供給所)〕
佐吉はよく飲んだ。1升飲んでも、2升飲んでも、形を崩さない飲みっぷりであった。
名古屋に出る前後の20代の頃は、豊橋の森米治郎や宅間喜右衛門、同じく豊橋二川の鈴木正治郎や伊藤久八などが飲み友だちだった。
名を成してからは、石川籐八、服部兼三郎とよく飲んだ。飲んでいた場所は料亭花月だった。花月は富沢町4丁目で、現中区錦3丁目21番地(旧東海銀行本店のあるブロック)である。広小路七間町という交差点をほんの少し北に歩いて、その西側だった。
3人は、酒を呑むと、将来は日本を背負う大実業家たらんと互いに気概を競い合った。飲み会は、いつも佐吉が主唱者で、発明上の名案を得たとか、一つの発明を仕上げた時、佐吉は欣喜雀躍して、両人を花月に招集した。
「佐吉の発明は煙の中から―」
と言われたくらい、佐吉は煙草が好きだった。それも「敷島」に限っていた。ちょっと考えに凝り出すと、4箱や5箱無意識に空にしてしまった。吹かすという方で、煙草の味を噛みしめるというのではなかった。
ある時、工場で喫煙はいけないというので、佐吉は禁煙令を出した。ところが2、3日過ぎて工場へやってきた佐吉が敷島をくわえていたので、部下の一人が「大将、ここは禁煙ですよ」と言った。
佐吉は慌てて、吸いかけの煙草をいきなり袂へ放り込んだまでは良かった。しかめつらをして技術上の話をしているうちに、部下はびっくりして叫んだ。
「あっ、大将、袂が燃えています」
佐吉は慌てて工場から飛び出した。
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