義和団の乱の後、欧米列強は中国に対する侵略をより露骨に行った。
なかんずくロシアの侵略はあからさまだった。各国は乱の終結後は撤兵したが、ロシアは撤兵するという約束を何度も反故にして、居座り続けた。明治34年(1901)の末には、10万人のロシア軍が満州を占領するに至った。このロシアの傍若無人な行動は、日本人を恐怖に陥れ、憎しみを増幅させた。
井桁商會を退いた佐吉は、元の武平町工場に戻って、豊田商会という屋号のもとに、織布工場を始めた。もっとも、佐吉の目的はあくまでも発明にあったので、この工場は発明資金を生み出すためにあった。工場は弟の佐助や妻浅子に任せて、自分は織機の発明に専念した。
佐吉が自動織機の開発を思い立ったのは、明治34年(1901)のことだった。実際に自動織機が完成したのは大正15年(1926)のことだから、実に25年も要すことになる。この間に佐吉が投じた試験費は優に数百万円を超えていた。
喜一郎はこの年、名古屋市立共同関治小学校に入学した。
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