この明治30年代の前半は、恐慌が波状的に襲ってきた。
明治30年(1897)は、日清戦争後の反動不況に陥った。名古屋株式取引所の市況は、低調だった。売買高は661千株で前年比0・7だった。前半は、金本位制の確立等から好調を示したものの、後半は金融引き締めから低調となった。
明治31年は、まだ不況だった。名古屋株式取引所の市況は、不振だった。売買高は510千株で、前年比0・8だった。北炭株の売買違約事件等から不振を続けた。
明治32年は、ようやく少し一息ついたものの、不況であることに変わりがなかった。名古屋株式取引所の市況は、不振だった。売買高は401千株で、前年比0・8だった。前半は、金融緩和・貿易の好調・鉄道の国有化問題等から活況を呈した。だが、後半は南亜戦争によるロンドンの金利上昇、日銀の正貨流出に備えての2回にわたる金利引き上げから諸株は低落した。
明治33年は、恐慌に陥った。原因は、綿紡績業や絹織物業が急落したためだ。それまで綿花の輸入は異常に増えていた。それはインド綿花の不作が伝えられていたので、紡績会社が大量に買い込んでいたからだ。このおかげで輸入が急増した。また輸出は、アメリカ経済が不振に陥った影響で、生糸の対米向けが急落した。
これらの要因で、輸入の増加・輸出の激減という事態になり、日銀正貨が流出した。正貨の準備金が減ると、金融が逼迫し、金利が急騰した。
紡績業は、設備投資を借入金で確保してきたので、たちまち金詰まりとなってしまった。在庫は投げ売りされ、糸価が暴落した。
さらに追い打ちをかけるように起きたのが義和団の乱だった。これにより対中の綿糸輸出は途絶してしまった。綿紡績業界は、操業短縮を何度も強いられた。こうした状況は日露戦争勃発まで続いた。
当時の輸出品の主は生糸だった。製糸業や綿紡績業などの繊維産業は、日本の資本主義経済発展の牽引車だった。その繊維産業の苦境は経済界全体に波及した。例えば、日本車輌製造は、上半期に人員整理を行った。
名古屋株式取引所の市況は、不振だった。売買高は346千株で、前年比0・9だった。貿易の逆調、清国の義和団事件、続く連合国の天津占領等、混沌とした情勢に、株価は振るわなかった。
明治34年は、さらにひどい恐慌になった。日本車輌製造は、7月から9月にかけてどん底になり、休業状態に陥った。このため、名古屋では、絞商、足袋商、木綿商、綿毛布商らが倒産した。林市兵衛が経営する時計業界の雄・林時計が義和団の乱の影響で中国向け輸出が途絶し、不渡手形を出した。
名古屋株式取引所の市況は、ひどい恐慌の様相を呈した。売買高は124千株で、前年比0・4だった。
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