鉄道車両の需要増大を背景にして、日本車輌製造株式会社が明治29年(1896)に設立された。
設立発起人は、奥田正香、白石半助、笹田伝左衛門、服部小十郎、鈴木摠兵衛、西川宇吉郎、平子得右衛門、瀧定助、春日井丈右衛門、酒井佐兵衛、森本善七が名を連ねた。
筆頭株主は、奥田正香で、彼が初代社長になった。
設立時の仮事務所は笹島にあった。明治31年に現在の熱田東町に移転した。〔参考文献『新修名古屋市史』〕
銀行は、明治20年代になってから設立ラッシュが起きて、全国各地で雨後の竹の子のようにできた。名古屋では、伊藤銀行とか、名古屋銀行などの地場銀行が誕生していた。だが、その大半は大きなものではなかった。こうした状況を一変させたのが愛知銀行と明治銀行という巨大銀行の誕生だった。
愛知銀行は、明治29年(1896)3月に設立された。
銀行条例が改正になり、国立銀行が消滅することになり、すでに名古屋で設立されていた第十一国立銀行と第百三十四国立銀行は、営業満期(設立後20年で私立銀行へ改組を求められた)を目前に控えていた。そこで名古屋に大資本の銀行を設立しようとのことで、実質的な合併が図られて、愛知銀行は発足した。
発起人は、第十一国立銀行と第百三十四国立銀行の代表と、旧尾張藩主徳川家がなった。第十一国立銀行の代表は、伊藤次郎左衛門、関戸守彦、岡田良右衛門、吹原九郎三郎の4人だった。第百三十四国立銀行の代表は、岡谷惣助、中村与右衛門、伊藤由太郎、祖父江重兵衛、山内正義の5人だった。つまり、旧尾張藩主徳川家と、その御用達商人によって構成されていた。
愛知銀行の資本金は、2百万円だった。
役員は、頭取に岡谷惣助が就任した。取締役に関戸守彦、酒井明、吹原九郎三郎、中村与右衛門、岡田良右衛門、伊藤由太郎が就任した。監査役は伊藤次郎左衛門、祖父江重兵衛、滝兵右衛門が就いた。
初代の頭取は岡谷惣助で、その後は元日本銀行名古屋支店長の渡辺義郎が明治42年以降、長期にわたって頭取を務めた。
本店は本町通の玉屋町に置いた。現在の住所では、中区錦3‐11(現在、万兵ビルのある場所。御幸ビルの北側のブロック)である。
愛知銀行は、明治39年の南満州鉄道の設立の際の株式応募にあたっては、全国一の取扱高を誇った。日露戦争後の銀行取付騒ぎも無事に切り抜けて、名古屋の金融界で確固たる地位を築いた。
愛知銀行は、昭和16年(1941)に名古屋銀行、伊藤銀行と合併し、東海銀行になった。なお、旧中央相互銀行から転換した現在の愛知銀行とは全く関係ない。
ここに載せたのは愛知銀行が明治34年に出した『商家必携』と題した冊子である。中をみてみると、愛知銀行の健全経営ぶりをしきりに強調している。また、最後の方には「名古屋市四等以上所得納税者」ということで、高額所得者の名前と店名・住所が並んでいる。
愛知銀行は明治29年(1896)3月に設立されたが、踵を接するように、明治銀行が明治29年8月に設立された。明治銀行の資本金は3百万円で、愛知銀行を上回っていた。
頭取は、当初奥田正香が就任したが、当時奥田正香は名古屋株式取引所の理事長でもあった関係で、兼業しにくいという判断になり、すぐ辞任して、後任として松本重太郎が就任した。常務・支配人は笹田伝左衛門がなった。取締役には、鈴木摠兵衛、松本誠直、近藤友右衛門が選ばれた。
また、明治31年には、奥田正香からの強い要請を受けて、神野金之助が頭取になった。神野は以後、大正5年(1916)までの長期にわたり、頭取を務めることになる。
この役員陣は、尾張藩御用達商人が少なく、近在出身の繊維商人や、外来派と呼ばれる新興勢力が中心で、奥田派に属する人たちだった。
株主構成は、株主数が多く、少数株主に集中していないのが特徴だった。1千株以上の株主は、奥田正香、神野金之助、白石半助の3人だった。続く600株台の株主は、近藤友右衛門などだった。
明治銀行の本店は、伝馬町7丁目(現・中区錦2‐5。八木兵錦2号館)にあった。
明治銀行はその後、日露戦争直後の恐慌を乗り切り、さらには大正3年の銀行取付騒ぎなど、様々な紆余曲折を経て、発展していった。
明治銀行の本店は最初伝馬町にあった。そして、大正12年には広小路に移転した。場所は、広小路七間町の交差点の西南角、つまり現在東急インのあるところだ。建物は、鉄筋コンクリート地上2階、地下1階建てで、豪華な造りだった。
では、明治銀行はその後どうなったのか?
実は倒産してしまった。昭和の初期は金融恐慌があった。昭和7年(1932)村瀬銀行の取付騒ぎがあり、明治銀行も倒れてしまった。〔参考文献『名古屋商人史』(林董一 中部経済新聞社)、『新修名古屋市史』〕
先行して明治15年(1882)に設立された名古屋銀行は、愛知・明治両銀行に刺激されたかのように経営規模を拡大していった。名古屋は、ここに3つの大きな銀行が鼎立する時代に入った。
この3大銀行は、それぞれ支持母体が異なっていたので、行風が合わず、何かにつけて競い合った。そこに支持政党もからんでいたので、ややこしい状態だった。
改めて整理すれば、名古屋銀行は、主に滝系の繊維商人に支持されていた。滝兵右衛門、瀧定助、春日井丈右衛門、渡辺喜兵衛らであった。
愛知銀行は、徳川をはじめ、九日会系と呼ばれた尾張藩御用達商人に支持された。伊藤次郎左衛門、岡谷惣助、関戸守彦、伊藤由太郎、岡田良右衛門らであった。
明治銀行は、奥田正香、服部小十郎、鈴木摠兵衛、蜂須賀武輔、神野金之助らであった。
この3大銀行は、場所も目と鼻の先だった。愛知銀行は、現在の住所では中区錦3‐11(現在の万兵ビルの場所。御幸ビルの北側のブロック)にあった。名古屋銀行は、現在の住所では中区錦2‐3(現・八木兵本社)にあった。明治銀行は、現在の住所では中区錦2‐5(現・八木兵錦2号館)にあった。つまり徒歩数分の範囲内にあったのである。
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