第4部 江戸時代後期の部/その5、長州藩 藩政改革に着手

その時、名古屋商人は

この頃創業した会社・お茶の升半

「5歳の孫がいるので七代目になってほしい」と目を細める横井半三郎氏「5歳の孫がいるので七代目になってほしい」と目を細める横井半三郎氏

 著者は海外旅行に行くと、日本茶を飲みたくなり、日本人であることを再認識させられる。饅頭と緑茶がセットになっていれば、至福の瞬間である。

 お茶の老舗として名が通っているのは、株式会社升半茶店だ。升半茶店の歴史は古い。尾張藩御用達の商人の雄・升屋横井彦八家の三男・初代半三郎は、枇杷島から名古屋都心の伝馬町(現・中区錦2で現在の本社所在地の近く)へ進出開店した。当時のお茶は茶坊主が独占していたので、庶民の口にはたやすく入らなかった。

 そこで初代半三郎は、宇治茶を産地から直接仕入れて販売することで、低価格を実現することを目指し、株仲間の結成と支配を尾張藩に出願した。願いは聞き入れられ、天保11年(1840)に許可された。この天保11年が創業である。

 升半茶店はその後順調に発展し、幕末には町奉行所御用達を拝命した。二代目半三郎は明治16年(1883)宇治木幡(京都府宇治市)に茶園と製茶所を設置し、本場宇治茶(抹茶)の生産から販売まで一貫した直売経営を実現した。

 横井家は、代々「半三郎」を襲名した。升半は正式には「茶舗升屋横井半三郎商店」という名前だったが、顧客から「升屋半三郎」、さらに略して「升半」と呼ばれるようになったので、今ではそれが正式の名前になった。

 現社長の横井半三郎氏は五代目。昭和3年(1828)生まれで83歳だが、みるからにお元気。「何か健康法は?」と質問してみると「うちのお茶を飲むこと」だとか。名古屋市立商業学校(CA)時代には、作家の故城山三郎氏と机を並べた。尾張藩の歴史研究の権威として知られる林董一氏も同級生だった。

 著者は「これまで一番辛かったことは?」と問うた。横井半三郎氏は「一番大変だった時期はやはり戦争の頃で、空襲ですべてを失ってしまった。蔵の中には国宝級の茶器もあったが、それを失ったのは思い返すも残念至極。しかし暖簾という財産が残った。お客様は遠いところをはるばるお茶を買いに来て下さった」と思い返す。

 平成22年(2010)で創業170周年を迎える。「よくここまで続きましたね?」という問いには「続いた秘訣は、本業一筋だったことだと思う。バブル時代には土地を買わないかと銀行から提案されたが、手を出さなかった。店を大きくして1番になりたいとも思わなかった。ただただお客様に良いお茶を提供して喜ばれたい、その一心でやってきた」と答えてくれた。

 本社は、名古屋市中区錦2‐7‐1。

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